玉石混淆の情報の氾濫する現在、 「受取った情報の中で正しいものを選び取る」 にはどうしたら良いでしょうか? 政府の公式情報は常に信頼できるでしょうか? マスコミは偏向していませんか? ネット情報は有象無象の人々が嘘八百を述べているかも知れませんね!
先日、 「Risk by Dan Gardner」 というブログを書きました。 リスクが、人間の日常の判断にいかに大きな、多くの場合不要かつ有害な、影響を与えているか、ということをクライマーの視点からまとめたものです。 以下では、それも踏まえて、「受取った情報の中で正しいものを選び取る」技術、つまりは情報リテラシーをどのように深め育て、涵養していくか、自分なりの指針をまとめてみました。
一次情報を探して確認する。
伝言ゲームは、ほぼ必ず誤りを含む。時には原典から180度意味が変わることも。 端的には、転送されてきた情報は信用しない。一次情報を自ら確認しない限り。実験や観察の結果があれば、全一次情報を確認する。
「全一次情報」とは、写真一枚だけでなく、その写真が撮られた条件や背景を確認する。 たとえば、バターに群がる蟻の写真であれば、その写真が撮影された実験状況がどうだったかを、一次情報から確認する。 バターは何で、皿がいつどこに置かれ、蟻はどこから来たか、など。 それが不明であれば、写真の信頼度はその程度。つまり信頼に値しない。 科学論文からの引用であれば、論文を読んで理解しないまでも、原典論文に写真が掲載されていること、著者名、発行日時、出版元くらいは確認する。出版元それ自体の評価を調べるのも有効な方法。
たとえば、科学論文であれば、学会の権威となっている出版社であれば信頼度は高いだろうし、一方、出版社の情報がそもそも見つからないくらいマイナーであれば、それは自己出版程度。 あるいは英国の報道ならば、BBC報道ならば、偏向はあるにせよ報道事実自体はおそらく間違いない可能性が高い一方、タブロイド紙ならば報道事実自体はったりの可能性を疑わないといけない。一次情報にできるだけ近いところを探して確認する。
一例として、フランスの情報であれば、フランスのメディアで確認する。 次善の策として、フランスのメディアを直接引用したものを探す。 「フランスでこう言っていた」という米国新聞の記事の日本語新聞での引用は伝言ゲーム。沖縄の情報なら、沖縄タイムズや琉球新報で確認。 発信国の言語がマイナーであればあるほど誤訳もあり、そして既存の固定観念に沿うものであればあるほど(以下の(10-B)を参照)、誤った情報が流れがち。 たとえばトルコで発生した男女差別の事件に関する英文情報、まして英文経由の日本語情報の信頼性は如何に?写真や絵の場合は、一段と気をつける。人間は絵に影響され易いから。
写真や絵である必然性がない場合(端的には文字情報が肝の場合)は、信頼しない。 それは単に広告技法の可能性が高い。そして敢えて文字に替えて写真/画像という媒体を使っているということは、発信者にメッセージ性を高めたい、という動機があると疑う蓋然性があるから。動画の場合は、さらに注意深く!
動画である必然性があるもの以外、原則として信用しない。 たとえば、写真で十分のものが動画になっているのは、プロパガンダと見なす。数字が引用されている場合は、誤差に気を配る。
たとえば、10分と言った時、実は 10±9分 (つまり 1〜19分)であれば、それは 10分とは全く異なる! 特に、科学論文由来であれば、必ず誤差が記載されているはず。 誤差が記載されていない数字は、原則として話半分かそれ以下と受取る。 なかでも科学論文由来で誤差が記載されていない数字は、意味無しと見なす。 なお、誤差の評価自体、恣意的な部分は常にあるので、保守的に解釈する姿勢は勧められる。科学論文であれば、誤差の統計的信頼度(67% とか 90% とか 99%とか)が記載されているのが常。 (一般記事で)それがない場合、端的には、文章中の誤差を倍したものまであり得る、と見なしてもいいことが少なくない。 例として、「10±5分」であれば、「0〜20分」と解釈する。 だから、「10±5分という結果だから、これは 4分より長い!」という記述があれば、それは眉に唾をつけておくべし。割合の数字(たとえば何パーセント)が記載されている場合は、それが(どういう前提条件で)何に対する割合かに細心の注意を払う。
何に対する割合かが不明ならば、その数字に意味は無い。
逆に、絶対数のみ記載されている場合は、割合がどうなるかを気にする。 たとえば、東京である犯罪者数が 1000人、大阪で 300人、という記事があったとして、数字には、直接比較する意味はない。最低限、人口あたりの犯罪者数、つまり割合がないと比較にならない。例、とりわけ具体的な例、が出されている場合は、気をつける。
たとえば、テレビの事件報道で、道行く人のインタビューが出たとして、それが代表的(典型的)な市民の声とは全く限らない! テレビ局は 20人にインタビューして、テレビ局の好みの回答をした人のみ放映していると見なすのが妥当。ちなみにこれは、想像できる例があればあるほど印象に残り、信頼もしやすい、という人間心理を利用したメディアの常套戦略。 津波の被害をヘリから俯瞰する映像より、津波で家族を失って悲嘆にくれる一人の映像の報道の方が心に残るのが、人間の性、という次第。
情報が回ってきた媒体の偏向度に注意する。
たとえば、『赤旗』であれば共産党の見方というフィルターが通され、産經新聞であれば非常に右寄りの見方というフィルターが通っている。 銀行の集まりであれば、金融業者の集まり、というフィルターが通る。 自分の友人であれば、自分の友人、というフィルターがある。 加えて、一般に、「追認傾向」と「集団力学」が働く。 つまり、似たような(嗜好の)人々が集まったところでは、- そういう人々が好みそうな情報が選択的に集まるため、得る情報は中立からは程遠くなる。
- 自分の見方(あるいは疑い)を追認する情報の信頼度を高く判断する傾向がある(確証バイアス)。 たとえば左右両方の情報を受け取った時、自分が元々左寄りならば左寄りの情報を、元々右寄りならば右寄りの情報を、正しいと判断して、もう一つの情報を棄却や無視する心理的傾向がある。
- 集団内で見方は平均化されるのではなく極端化する傾向がある(集団極性化)。 たとえば左寄りのグループならば、元々少し左だった人はずっと左に振れ、元々本格的に左だった人は極左化する傾向がある(これは、(B)の結果、と考えれば自然な傾向)。
情報が危険性を警告するもの、恐怖を煽る性質のものの時は、慎重に吟味。
人間は、本能的に、恐怖に反応するようにできている。 だから、政府もメディアも私企業も、恐怖を煽ることで、目的を達成しようとするのが常套手段。先祖の祟りが、と壷を売るのはその極端な例。 性質の悪いことに、人間は、否定的な情報の方が、信頼度が高いと本能的に感じる傾向がある(ネガティビティ・バイアス)。 たとえば「マーガリンはヘルシー」よりも、「マーガリンは危険」という情報の方が、直感的に正しいと感じる傾向がある、という次第。「単純」「簡単」を謳う主張は懐疑的に受取る。
単純な議論と複雑な議論とを聞いた時、一般に、前者に軍配をあげて正しいと感じる傾向がある。 特に、複雑な議論の方の理解が困難の場合はそれが著しい。 しかし、単純な議論の方が本質的により正しい、という根拠は無い。 世の中のほとんどのことは複雑なのだから、それを単純化するならば、それはどこかにその人の(恣意的な)案配が入っている、ということに留意すること。つまり、ここで単純化して箇条書きされていることは、疑うべし!
「陰謀論」は一般に、即時棄却してよいくらい。
(11)と(12)との典型例になることが多い。実際、- 多数、特に不特定多数の人を巻込んだ悪事は現実的に不可能(秘密は漏れるもの)。
- 不可知な方法で大規模悪事を働くような超絶天才集団組織を仮定していることが少なくないが、それは常識的には存在しない、まして政治家では。
- 超絶天才集団組織が起こした悪事が、天才ならぬ貴方になぜか簡単に悟られるヘマをしてしまう、つまり彼らは超絶天才ではない、という自己矛盾。
- 一次情報をつけた証拠を挙げない(陰謀者は天才だからそんな証拠は残さない?!)。
と言った特徴が散見されれば、疑問度が急上昇します。
まとめ
情報リテラシーを育てるためには、
- 懐疑的であるべし。自分の直感も含めて、疑うことを習慣とするべし。
- 抱いた疑いを解決するために何が必要かを考え、実行に移すべし(頭を使う!)。
- 直感と(調査し考えた末の)頭脳的結論とが矛盾する場合、ぐっと我慢して、頭脳的結論に従うべし。
の全てが必要でしょう。
なお、そもそも疑う必要性が薄いもの(対人関係の多くの場面とか)は、話は全く別です…
コメントを追加