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2015年ノーベル物理学賞

標準理論が含む素粒子の一覧。ウィキペディアより。

2015年ノーベル物理学賞は、梶田隆章氏およびカナダのアーサー・マクドナルド氏に授与されました。受賞研究は、ニュートリノ振動の発見です。以下、まずその科学的背景について、僕の言葉で解説します。後半では、その文化的考察も述べます。

2015年ノーベル物理学賞受賞研究の科学的背景と意義

物質の根源としての素粒子

世の中の物質を細かくしていくと(「切る」と言ってもいいです)分子になります。分子をさらに細かくすると、原子です。つまり原子が分子を構成しています。たとえば、水分子はH2O、水素原子2個と酸素原子1個との組み合わせです。

ただし、一部の物質は、直接原子でできています。たとえばヘリウム。あるいは金属は基本的に原子が(固体では)格子状になったものです。

原子は、原子核と電子とからなります。

原子核を構成しているのが陽子と中性子とです。原子の種類は、単純に原子核中の陽子の数によって決まります。陽子が1個なら水素、2個ならヘリウム、6個なら炭素など。

陽子と中性子との仲間をハドロンと呼びます(さらに詳しくは、二者は、ハドロンの一種のバリオンと分類される)。陽子と中性子以外のハドロンの代表的なものが、中間子です。中間子の存在を最初に予言したのが湯川秀樹で、日本人として初めてノーベル(物理学)賞に輝きました。ハドロンは、大きさがあり、また素粒子としては質量が大きいものです。

ハドロンを構成するのがクォークで、その振舞いをきれいに統一的に説明したのが、2008年にノーベル物理学賞となった、小林・益川理論です(同時受賞した南部さんの功績はその基礎となった素粒子理論)。同理論では、クォークに6種類あることが予言され、6番目のトップクォークが1990年代半ばについに発見されたことで、理論の正しさが確定したのでした。

たとえば、陽子はアップクォーク2個とダウンクォーク1個、中性子はアップクォーク1個とダウンクォーク2個、とからなります。それ以外のクォークは、地上の通常の環境では登場しません。

一方、原子核と対になって原子を構成するもう一方の素粒子が電子です。たとえば「電流」とは電子の流れです。電子は、ハドロンに比べてはるかに質量が小さく(陽子の約二千分の一)、また、大きさを持ちません。

電子の仲間を総称してレプトンと言います。たとえば、宇宙線の中の「ミューオン」を聞いた事があるかも知れませんが、ミューオンはレプトンの一種です。電子やミューオンは負の電荷を持ちます。一方、レプトンの中には電荷を持たないものがあります。それがニュートリノです。3種類(「世代」と呼ぶ)あって、電子ニュートリノ、ミュー(μ)ニュートリノ、タウ(τ)ニュートリノと呼ばれます。

なお、この世界を構成している基本物質(素粒子)には、もう二種類あって、ゲージ粒子とヒッグス粒子と呼ばれるものです。ゲージ粒子の代表は光子で、他にはウィークボソンや、仮説上の存在として重力子などがあります。ヒッグス粒子は、その名もヒッグス粒子が唯一のもので、2013年3月にジュネーブのCERN[セルン]が、「高い確率でヒッグス粒子と考えられるもの」の検出を発表しました(世界中でニュースになりました)。2015年3月には同じくCERNでより高い精度の追試で確認されています。

この世の中の素粒子はこれで全部です。すなわち、

  • クォーク(6個) (陽子、中性子、中間子などを構成する基本素粒子)
  • レプトン(6個) (電子、ミューオン、ニュートリノなど)
  • ゲージ粒子(4〜12個; 数え方次第) (光子、ウィークボソンなど)
  • ヒッグス粒子(1個)
ただし、反粒子があるものも数多いため(たとえば、電子の反粒子が陽電子)、それを別に数えるならば、実際はこの倍近くになります。これだとまだ「素粒子」の数が多いので、これらを統一的に説明できるさらに原始的な素粒子を求めて、素粒子物理学者の探求が続いています。

なお、おさらいしておくと、地上で手に取れるような物質を構成しているのは原子で、原子を構成しているのは、究極的には、クォーク2種類と電子のみです。つまり、100種類あまりある原子は、3個の素粒子だけですべて説明できるわけです。他の素粒子は、光子のように原子とは独立に存在しているか、または地上で見られるような低エネルギー領域では現れません。

ニュートリノとは?

ニュートリノの発見

さて、これらの中で最も不可思議なものが、ニュートリノです。最初に予言したのは偉大なるヴォルフガング・パウリだそうです(「パウリの排他原理」を初めとする量子力学への貢献により1945年ノーベル物理学賞受賞)。1930年。ただし、予言した時、ご都合主義だけど、という意味のことを言ったとか。

背景になったのは、「ベータ崩壊」の性質によったものでした。ベータ崩壊(β崩壊)とは、ウランなどの放射性物質が原子核崩壊する際の崩壊の仕方の種類の一つです。ベータ崩壊をよく調べると、物理学の基本法則であるエネルギー保存則(と角運動量保存則と)が破れているように見えることが分かりました。そこで、謎の検出不能(に近い)素粒子がエネルギー(と角運動量)を持ち去って逃げていくと仮定すれば辻褄があう、とされたものです。それがニュートリノです。

そういう意味で、ご都合主義的ではありました。でも、もしそういう粒子が存在すると仮定すれば、それがどういう性質を持っていなくてはならないかは当時の素粒子理論でもかなり厳しく決められました。その四半世紀後、1956年に、フレデリック・ライネスらが本当にニュートリノを直接検出することに成功し、ニュートリノが理論物理学者の夢物語ではなく、実在することが証明されました。ライネスらはパウリに電報を送って、吉報を知らせたそうです。パウリが亡くなる2年前のことでした。なおライネスは、その功績によって、実に40年後の1995年、ノーベル物理学賞を受賞しています。

ニュートリノの性質

さて、ニュートリノは、電子と同じく大きさを持ちません。また、(電子と異なり)電荷も持たないため、電気的な相互作用はしません。質量が無いか、あっても極めて小さいため、重力相互作用も基本的にしません。これらは、物質と相互作用をほとんどしないことを意味します。つまり、ニュートリノは、基本的に他の物質と衝突することなく、空間を自由にどこまでも飛んでいきます。

しかし、(たとえば太陽内部で起こっている)原子核反応では大量に発生するため、宇宙にはものすごい数のニュートリノが飛び交っているとされています。具体的には、わたしたち一人一人の人体を、毎秒何兆個ものニュートリノが通過している、とされます。それらニュートリノは人体はもちろんのこと、下の地球も関係無くそのまま突き抜けて、地球の裏側から何事も無かったかのように出て行くわけです。もちろん、直射された人体も地球も完全に無傷です。

イメージとしては、透明なガラスを通り抜ける光を想像してみるといいかも知れません。普通の物質は、ガラスを(割らずに)通り抜けることはできませんが、光は簡単に通り抜けて、かつガラスにその痕跡も残しません。光に対して、ガラスは「透明」なわけです。

あるいは遮光カーテンと電波とを考えてみるのもいいでしょう。他の普通の物質はおろか光さえも遮光カーテンを突き抜けることはできませんが、電波はいとも簡単に突き抜けます。だから、カーテンを張った屋内でも、携帯電話は余裕で使えます。電波に対して、遮光カーテンは実質上「透明」なわけです。

同様に、ニュートリノに対しては、人体はおろか地球でさえ、「透明」というわけです。

さて、このニュートリノ、他の物質と全然相互作用しないならば、あってもなくても気にしなくてもいい、と思うかもしれませんが……、素粒子物理学では重要な役割を担っています。また、宇宙論、つまりこの宇宙がどこから来てどこに行くのかという運命を考える時には、ニュートリノは重大な鍵を握る可能性があります。

たとえば、宇宙の中で目に見える物質が占めるのは、エネルギーにして5パーセントに過ぎないことが分かっています。もちろん、エネルギーが大きい方が影響力は大きいですから、宇宙の運命を探るには、その残りの95パーセントが鍵を握ります。ベータ崩壊の時にエネルギーを持ち逃げするものとしてニュートリノが予言されたように、各ニュートリノ粒子はエネルギーを持ちます。宇宙にあるニュートリノの総量を考えると、その総エネルギーは全くばかになりません。

ニュートリノの質量とニュートリノ振動の発見

さて、不可思議な素粒子ニュートリノに質量があるかないかは、昔から大きな問題とされていました。質量が小さいことは間違いないですが、ニュートリノはこの宇宙にあまりに膨大な数存在しているため、もしニュートリノにわずかでも質量があれば、ニュートリノの全質量は、宇宙の中の質量の相当部分を占めると予想されるからです。

実際、宇宙の中の質量を持つ物質を考えたとき、目に見える物質の総質量は、宇宙の総質量の7分の1に過ぎないことが分かっています。当然、残り7分の6の方(「暗黒物質」と呼ばれます)が、宇宙的には影響大です。

その問題、つまりニュートリノの質量の有無に決着をつけた発見が、今回のノーベル物理学賞の授賞理由でした。梶田隆章率いるチームによる1998年の発見と、カナダのアーサー・マクドナルドらによる21世紀初頭の発見とです。いずれも、ニュートリノが飛来中に、ある確率で物質との相互作用で世代(種類)が変わることを発見しました。ニュートリノ振動と呼ばれます。素粒子理論により、これは、ニュートリノに質量がある確定的証拠となりました。

なお、最初に、ニュートリノは物質と相互作用をしないと書きましたが、厳密には、極端に稀ながら、相互作用をすることがあります。実際、相互作用の確率が厳密にゼロならば、論理的に言って、直接検出することは不可能になります。ただし、本当に極端に稀なので、その検出は、超大型観測器による超々精密観測が必要とされます。

具体的には、梶田チームが今回の発見を行った富山は神岡のスーパーカミオカンデは、地下1000メートルに50000トンの超純水を張って、その超純水と極端に稀ながら反応するニュートリノを捉える検出器です。(きれいなことで知られる)摩周湖よりも桁違いに純粋な水を使用しています。1cc あたり、1万分の1mm(!)以上のゴミが100個以内に抑えられている、とか。

一方、マクドナルド氏らのSNO観測所は、地下2000メートルに 1000トンの重水を張ったものです。重水とは、水分子の中の水素が(同位体の)重水素に置換されたもので、天然の水には、3200分の1でしか存在しません。それを複雑な化学過程で精製することで作り出すので、大変高価な「水」です。ウィキペディアによれば、(カナダにある)世界最大の重水製造工場でも年間700トンしか製造できないそうです。重水の方が普通の水より密度が高いため、ニュートリノ検出には適している、という次第です。

ニュートリノ物理学

さて、ニュートリノに質量があることは確定しましたが、それがどれくらいかは、まだ上限値しか分かっていません。今後の観測・実験を待つことになります。また、現在の素粒子標準理論では、ニュートリノに質量が無いことを仮定しているため、素粒子標準理論も大きな改訂を迫られています。ニュートリノ振動の発見から15年以上経った今もまだ、その決定的な解決には至っていないようです。

というわけで、今回のノーベル賞受賞の発見は、ノーベル財団の言葉を借りれば、「我々が生きるこの宇宙のさらに包括的な理解への扉を開ける発見」となったのでした。

文化的考察

カミオカンデとノーベル賞

梶田さんらが使った観測施設は、富山の旧神岡鉱山の地下に建設されたスーパーカミオカンデです。その前身は、同じく同地で、相対的に小規模のカミオカンデでした。カミオカンデ建設の最大の目的は、陽子崩壊の検出でした。小柴さんをはじめとする現場の研究者の真意は存じませんが、少なくとも、陽子崩壊の検出が旗印で、ニュートリノ観測は計画書の端の方にちょろっと、そんなこともできるかも、と書かれていた程度だったようです。ところが、実際には、カミオカンデの名が世界的に響き渡ったのは、1987年の超新星起源のニュートリノの検出でした(2002年の小柴昌俊のノーベル物理学賞の発見)。当初の目的だった陽子崩壊の検出は、次第に、ほとんど忘れ去られることになったくらいです。

そのカミオカンデの大発見を受けて、それを発展させたものとして、スーパーカミオカンデが建設され、今回のノーベル物理学賞につながる成果があがりました。一つ(一種類)の実験施設で二つのノーベル物理学賞受賞とは、本当にすごい成果だと思います。

ちなみに、小柴と並んで2002年にノーベル物理学賞を共同受賞したリカルド・ジャコーニの功績は、X線天文学、つまり宇宙から来るX線を観測する天文学、を開拓したことでした。ジャコーニらが初めてX線望遠鏡を打ち上げたとき(X線は地上では観測できないので、望遠鏡を軌道上に打ち上げる)、その名目は、太陽X線の月による反射を検出することだったそうです。ただし、彼らの事前の試算では、検出はとても無理っぽいけど……ということだったとか。しかし、その観測で、宇宙の他の場所から全く予想外の強いX線が検出されたことで、X線天文学が誕生したのでした。その後発展したX線天文学により、理論上の産物だったブラックホールの存在が確定したり、彼方の銀河団の質量の大部分は光では見えない星間ガスが担っていると発見されたり、と目覚ましい成果をあげることができました、

そういう意味では、自然は、物理学者も含めて人間のちっぽけな想像力をはるかに上回る予想外の姿を見せるものだ、と言っていいでしょうね。

冒険的研究

冒険的な研究には、大金だけかかって成果が出ない、というリスクがつきものです。実際、カミオカンデにしても、陽子崩壊は観測できなかったので、そういう意味では、役立たずだったと言えなくもありません。しかし、人類の科学の発展には、そういうリスクを取った結果として初めて成功したものが数多くあります。カミオカンデにしても、当初の予想とは違った形で歴史に残る偉業を成し遂げたのでした。

さて一方、現実問題としては、基礎研究への公的予算の配分の時には、成果がどれくらい出ると期待できるか、という点が大変重視されます。でも一般論として、画期的な成果が約束されている研究なんてほぼあり得ません。そうすると、予算獲得のためには、どうしても「『画期的ではないけれど論文にはなる程度の結果』が高い確率で達成される」テーマ、つまり保守的な研究テーマを提示する傾向があります。実際、科学者としては、予算がなければ研究もあがったりで、一方、(予算を配分する)政治家・官僚としては、予算をつけたのに成果無く論文一つ出ないでは問題ですからね……。

その辺のさじ加減は、科学者にとっても、政治家にとっても、本当に難しいところだと思います。特に働き盛りの若い科学者の多くは、1〜3年契約の不安定な身分であることが普通なので、予算が獲得できなければ、文字通り飯の食い上げを意味しかねません。それこそ、自身のサバイバルのために、ホームランなんて要らないから、セーフティバントでも四球でもなんでもいいから出塁できればいい、という雰囲気が結構あるのが現実です。馬力ある若手が、実際的な理由で、大志をもって夢を見るよりは、むしろ小さくまとまる傾向が少なからずあるわけです。難しい問題です。

現代の巨大科学

現代の科学、特に最先端の素粒子物理学は、巨大科学と呼ばれます。莫大な予算とマンパワーとが必要とされるからです。実質上、その規模の実験施設は世界で唯一、仮にあってももう一つがせいぜい、ということが少なくありません。そして、そんな巨大実験観測装置でなければ、最先端の研究ができない、というのが実情でもあります。かつて(ノーベル物理学賞受賞の)朝永振一郎が、加速器はどこまで大きくなるのかと訊かれたとき、赤道の大きさまで、と答えた、という逸話に象徴されそうです。

スーパーカミオカンデの開発と観測にしても、その成果の論文は、100人を超える物理学者が共著者として並んでいます。それを取りまとめて率いた梶田さんに非凡の才があったことは疑わない一方、彼一人の力では決して無かったことも間違いありません。そういう意味で、今回のノーベル物理学賞は、二人に授賞されたというよりは、チームに授賞された、という方が適切だと思います。

それは、現代の実験的素粒子物理学の宿命なのでしょう……。よく言えば、従来の小型実験機器で分かることはもうほとんど分かってしまっているからでもあります。だから、新境地を見出すには、高性能の(大型)実験機器を使うしか無い、というわけです。ただそういう意味では、参加する物理学者各個人は、歯車の一つのような側面がかなりあります。

もちろん、物理学と一口で言っても、分野にはよります。40年前の研究とは言え、益川・小林の研究はほぼ個人のものでした。理論的研究は、個人でも可能ですから。あるいは、青色ダイオードの中村修二は、現代としては異色の一品狼的だったようです。天文学は、おそらくその中間と言ってよくて、巨額の機器を使うものの、多くはそれほど観測日数を使わなくてもよいこともあって、個人の活躍できる余地がまだまだある分野でした(実際、アマチュア天文家でさえ貢献できます)。とはいえ、天文学も大型化、チーム化している傾向は世界的に顕著です。

日本政府の科学予算政策

今回のノーベル物理学賞の発見の舞台のスーパーカミオカンデのプロジェクトは、2009年、事業仕分けの中で、予算の大幅削減の対象としてリストされました。当時でも、小柴さんはノーベル物理学賞をすでに取っているし、ニュートリノ振動の大発見の意義は物理学者には十分すぎるほど理解されていたんですけどね……。日本の物理学プロジェクトの中で超一流のスーパーカミオカンデをそんな風に実質上使えなくするなんて……、と抗議の声があがったものでした。

実は、小惑星探査機はやぶさの後継機の「はやぶさ2」の開発時にも当初予算が大幅削減されて実質上開発不可能になった時期がありました。「はやぶさ」の大成功帰還の後、国民的ブームになった後の話です。

科学予算配分が難問なのは理解できるとは言え、大成功を収めた研究チームがこのように大幅予算削減の憂き目にあうというのは、頂けませんね、本当に。それこそ、科学者が成功を目指す意欲を減退させる最高の方法ではないかと。

基礎科学の社会的意義

報道によれば、ノーベル賞受賞発表を受けて、梶田さんは、「この研究は[……(実用の)]役に立たない」という意味の発言をしました。

論理的に正しい発言ではあります。確かに、氏が認めるように今回ノーベル物理学賞に輝いた発見は、人類の物質文明にすぐに直接役立つものではありません。ニュートリノに質量があることが分かったところで、たとえばそれが新しい電灯に応用されたりはしないので。

しかし、仮にもノーベル賞を受賞した研究、つまり歴史に残るほどの優れた研究について、受賞決定後の短いコメントの中にこういう言葉が入ってしまうという日本の状況を僕は憂えます。氏が同じコメント中で述べたという(この研究は)人類の知の地平線を拡大するようなものが十分なまとめでしょうに、その前に「役に立たない」という但し書きが入ってしまう、という現実が。

実際、その背景には、そんな基礎科学の研究に巨費を投じるのはどうよ、という議論が、日本社会から消えることがない様子が伺われます。(スーパーカミオカンデを管轄する)東大宇宙線研究所の所長として、きっと梶田さんはそのような疑問に無数に答えてきたのでしょうね……。

言うまでもなく、それゆえに国家が傾くほどの巨額の予算を基礎科学に費やすのはばかげています。でも一方で、文化的な国としては、ある程度の投資は必須のことと僕は主張します。以下のような理由です。

基礎科学が将来応用される

まず第一に、基礎科学は、今は「基礎」ですが、将来には今では想像がつかない応用がなされるかも知れません。科学文明はそうして発展してきたものでした。たとえば、1世紀前にアインシュタインが定式化した相対性理論は、極めて極端な世界でのみその効果が顕著に顕われるものでした。具体的には、速度が秒速30万キロメートル(1秒間に地球赤道を7周半)、あるいは地球表面の重力の1兆倍、に近い状況です。そうでない普通の状況だと、相対論的効果は無視できるほど極微小の量に過ぎません。

しかし、現代の世界では、アインシュタインの相対性理論は、ほとんどの人が持つような身近な機械でも応用されています! スマホなどのGPS、あるいはカーナビです。それらGPSは、超々高精度で位置を決める必要があります。そのためには超々高精度の物理学が必要になります。相対論的効果の無視できるほど極微小の量が決定的に重要となるのです。端的には、相対性理論なくしてはそんな超々高精度は無理で、つまりカーナビは存在していなかったわけです。天才アインシュタインとは言え、100年後にそんな応用がなされるとは夢にも思っていなかったこと疑いありません。

なお、GPSの例は、基礎科学が直接実用の役に立ったという意味で、ちょっと例外的ではあります。しかし、そうでなくても、すべての応用科学(たとえば工学、農学、医学)は、当たり前ですが強固な基礎科学があってこそ成り立つものです。基礎科学無しに工学は存在しませんし、基礎科学の発展無くしては工学の発展もいずれ頭打ちになりましょう。国として基礎科学をないがしろにする態度は、近視眼的という謗りを免れないでしょう。

ちなみに、日本は、歴史的には、よく言えば「真似して改善するのがうまい」、悪く言えば「外国の基礎研究の成果をパクってきて応用して金儲けする」とされてきた印象があります。端的には、基礎研究への投資が相対的に少ない、と。実際、日本の国立総合大学では、理学部よりも工学部の方がずっと規模が大きい方が普通です。一方、たとえば英国の大学だと、大学によって異なればまた学部の切り分けも違うので一概には言えませんが、感覚的に半々程度というのは珍しくなさそうです(ただし、この10年で、大学の「実学化」がかなり進んだという傾向はあります)。そういう意味では、日本の基礎科学への投資割合は、世界に誇れるものではないでしょうね。

基礎科学研究の副産物

第二に、基礎科学の研究の中で、予想外の実用的な副産物が出ることは珍しくありません。近年の代表的な例がワールド・ワイド・ウェブ(WWW)、つまりウェブサイト(の世界的ネットワーク)です。WWWを初めて構築したのは、スイスの素粒子加速器研究所CERNの研究者ティム・バーナーズ=リーです。今では文字通り世界の隅々で広く使われているWWWは、素粒子の基礎研究の副産物だったのです。

思うに、目標を持ってそれを達成させるのはいいのですが、その際、原理的に、目標と大きく異なるものはできないものなのでしょう。人間の想像力には限界がありますからね。WWWのように本当に画期的な新しい発明とは、一見直接関係無いところから、遊び心も手伝ってかひょいと出てくるものかも知れません。

知的好奇心の追求

第三に、そもそも知的好奇心の追求は人間の本能だと僕は思いますし、それこそが人類の文明がここまで成長してきた原動力でしょう。人間が、あるいは宇宙が、どこから来てどこに行くのか、などをはじめとした根源的な問いは、誰もが一度は抱いたことがあるはずで、それを本気で追求する努力には、相応のサポートがあっていいと考えます。

歴史を顧みれば一目瞭然のように、人類の科学文明は、近年になって加速度的に発展してきています。その昔、人類は、食べていく、生きていくだけで精一杯で、それ以外の余裕はなかなかありませんでした。近代になって、少し余裕が出てきたところで、知的好奇心を追求できる環境が加速度的に整い、それが科学文明の発展を後押しして、文明の発達によってさらに余裕が出てきて、それがまた科学研究を発展させる、という良い意味で正の循環がかかったのでしょう。人類の歴史上、生存する、という意味ではもっとも余裕がある現在、知的好奇心の追求にブレーキをかけるのは、賢い選択ではないと考えます。

知的好奇心の教育への影響

第四に、基礎科学の教育に及ぼす影響は軽視すべきではありません。基礎科学の発展によってこの世界の理解が進むことで、それが若い次世代の知的興奮を促進します。僕自身、中学生の時に読んだ天文学の中学生向け啓蒙書を今でも覚えています。当時の最先端の宇宙の理解が解説されていました。僕が大学院に進む頃には、その本の中で「謎」とされていた天体の正体が明らかになっていたものでした。少年の僕の知的好奇心をかきたてたのは、先人の基礎研究だったわけです。

この世界が発展していくためには、若い次世代の知的好奇心を刺戟しないといけません。好奇心なしに学びもありませんからね。学びの結果として、どの分野(理学、工学、農学、医学、経済学、法学、文学、他なにでも)により興味を持つかは問題ではありません。でも、まず学びたくなるだけのよい材料を提供するのは、大人の役割だと信じます。そして、好奇心の原動力の根っこにあるのは、基礎科学でありましょう。それが実用的に「役立つ」かどうかで、子供の好奇心が決まるわけではないでしょう!

参考

今回の物理学賞につながった発見の解説は、ノーベル財団のものが優れていると思いました。
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2015/press.html
同ページのリンクにあるPDF(一般向けと物理屋向けの二本)ではさらに詳説されています。ただし、いずれも英語です。

(2015-10-08 坂野正明)

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