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ジョー・ブラウン (Joe Brown)
英国のクライミングの歴史の中で、最大の英雄を一人挙げろ と問われれば、おそらく多くのクライマーはジョー・ブラウン (Joe Brown)を挙げるでしょう。戦後まもない1950年代、 パートナーのドン・ウィランス(Don Whillans)と並んで 英国(つまりは世界)のクライミングをほとんど四半世紀 先取りしていた人物です。
特にピーク地方と北ウェールズとにおいて、数々の岩場で 当時、不可能だったルートをフリークライミングで 初登攀しました。 実際、ジョー・ブラウンは、仮にどんなに 困難でも 1ピッチにつき 2本以上のピトンは使わない、という 原則を自分に課していたことで有名です。しかも そんなピトンすら使わずに登られていたことが多かったと 聞きます。
実際、彼がピーク地方の Millstone Edge にてあるルートをフリークライミングで登った時、 それ以前は Millstone Edge では(フリークライミングが不可能だから、 グリット石としては例外的に)ピトンを打ち放題、人工登攀の 天国だったのが、一夜にしてピトンが打たれることが無くなったといいます。 あるいは、 Froggatt Edge の Great Slab (E3) を、名の通りスラブであるにも関わらず、当時の靴でオンサイトで 登ったそうです。 まさに英国の登攀世界を体現する人物だと言えましょう。
彼が初登攀したルートは、現在 VS〜E2 の 難易度とされている ものが大勢を占めます。Ramshaw Crack に至っては、E4 (5.11+ くらい?)と されます。したがって、この現代の世でさえ、ジョー・ブラウンの ルートをすべて(オンサイトで)登れるほどの力があるクライマーは、 大いに誇っていいものです。たとえば大学の登山部なら、その域に 達している部員は誰もいないことは珍しくないでしょう。
そのような伝統登攀を極めるため、支点に使う道具にも工夫をこなし、 現在使われているような 金属製ナッツの原型は彼が使ったもの だったと聞きます。ジョー・ブラウンは後にアルプスに出かけて 数々のルートを初登攀します。当時は(回収不能の)ピトンを がんがん打ち込んで登るのが普通だったアルプスで、 彼らはそういった先進ナチュラル・プロテクションを 駆使して登っていました。二登した外国のクライマーが、ルートが あまりにきれいな状態で残されているのに驚き、一体 ブラウンらはどうやって登ったのか、と首をかしげることがあったと聞きます。
ジョー・ブラウンはその後、ヒマラヤにも遠征し、 世界第三の高峰カンチェンジュンガ(8586m)を初登頂したのを 初め、数々の足跡を残します。ロック・クライマーとしてだけでなく、 アルプス・高所登山家としても一流のクライマーでした。
また特筆すべきは、ジョー・ブラウンは、ドン・ウィランスと並び、 登山における階級の壁を破って労働者階級にクライミングを持ってきた、 という意味でも象徴的な存在です。
この背景には、英国の社会制度、文化の理解が必要です。 英国では、古くから上流(貴族)階級と労働者階級の差が顕著で、 比較的最近までその傾向は色濃く残っていたものです。 たとえば、英国では列車によっては、内側から扉が開けない車両が 今でも(!)あります — 昔は列車に乗れるような貴族の場合、 召使が駅で待機していて主人のために外から扉を開けていたため、 内側から扉が開けられなくても不都合はなかったからだと聞きます (今の世では当然そんなわけはないので、結果、降車したい人は、 扉の上部の窓を開けて手を外側に出して把手を回すことで、外から扉を開けます — ほとんど冗談のような光景!)。 今でさえそんな雰囲気がまだ残っているのですから、 半世紀前の状況は推して知るべし。
英国の登山史は、実質上、18世紀のアルプスの山々初登頂に始まります。 当時、遠くアルプスまで出かけて登れるような人々は、 当然金持ち、つまり貴族階級、上流階級の人々でした。 実際、当時の「登山」は、地元の登山ガイドに氷や雪の上に ステップを切らせてそれを登っていく、というスタイルでした。 最後、山頂に達する直前に、(それまで道を切り開いてきた)ガイドを こともなげに横に押しやって初登頂を達成する、というものだったと聞きます。
英国本土の地元であっても、登山に情熱を燃やせる人々は、 多くはその余裕がある上流階級の人々だったのも当然でしょう。 1950年代、自家用車は当然、労働者のものではなく、山や崖に 行くだけでも大変だったはずです。 そんな中、 ジョー・ブラウンは、(当初は)配管工・大工として生計を立てつつ、 余暇を使ってクライミングに情熱を傾け、 同じく配管工だったパートナーのドン・ウィランスと共に、 英国の登攀の歴史を大きく書換えたのでした。 端的には、彼ら以降、登山、少なくともロッククライミングは、 最早上流階級の独占するものでは無くなったのです。
面白いことに、ジョー・ブラウンの仇名の一つは 「The Baron」(=男爵; "The" 付きなので、「男爵」と 言えば他の誰でもない彼のこと、という語感)です。階級社会の壁を打ち破った クライマーの仇名なのに! 破天荒な振舞いで有名な相棒のウィランス (仇名: The Villain (=悪漢))との対比があったのでしょうか。 ただ、写真で見る彼のクライミングの様子はクールそのもの、 「男爵」の名は僕は頷ける気がします。なお、ジョー・ブラウンには、 他に「The Master」(=名人)、「The Human Fly」(=人間蝿) という 仇名もあります。
今、北ウェールズのスノウドン山の麓、ハンベリス村には、 その名も「Joe Brown」という彼の名を冠した登山用具店があります。 一度、立ち寄ってみられるのもいいかも知れません。
参考リンク
- 「Joe Brown」店(@北ウェールズ)の人物伝
- http://www.joe-brown.com/biography.html (英語)
- @wikipedia
- http://en.wikipedia.org/wiki/Joe_Brown_(climber) (英語)
- 拙メルマガ
- 第83号
ジョージ・マロリー (George Mallory)
ジョージ・マロリー(George Mallory)は、世界の登山史の中で最も有名な 登山家の一人でしょう。 1920年代に、エベレスト初登頂を目指した英国の 3回の遠征で主役をつとめた 登山家です。中でも、1924年の 第3回遠征では、アンドルー・アービン (Andrew Irvine)と共に、少なくとも頂上まで数百メートルのところに達していたことは (雲の切れ間から)確認されています。しかし、その時にアービンと共に 不帰の人となりました。
その時(1924年)に、果してマロリーらがエベレストの山頂まで至ったか どうかがその後今に至るまで議論の、そして研究の課題になっています。 地球最高峰のエベレストの初登頂は、1953年のヒラリーとテンチンに よるものが公式記録ですが、ひょっとすると、その 30年前に エベレストの山頂を踏んだ人間がいるかも知れない、というわけです。
日本でも、その謎をテーマに据えて、夢枕膜が『神々の山嶺』という 小説を書きました(後に谷口ジローによって、同名で漫画化もされています)。 1997年のことです。マロリーはカメラを持っていたはずだから、 もしそのカメラが見つかれば、マロリーが登頂成功したかが分かるはず……と。 その可能性自体は、コダック社がそう証言している事実でもあります。
奇しくも(本の出版の)わずか 2年後、「マロリーおよびアービン 研究遠征」隊によって、マロリーの遺体が75年の歳月を経て発見されました。 しかし、カメラは見つからず、今に至るまで議論に決着はついていません (そのため、さらなる研究遠征までも行なわれました)。
マロリーの登山技術と大胆さとは当時傑出していたようです。 マロリーが 1913年にフリークライミングで登った湖水地方の ピラー・ロックス(Pillar Rocks)のルート "Mallory's Route (North-West by West)" は、 現在、HVS (核心 5a) の難易度とされていて、当時としては群を抜いて 難しかったルートだったそうです。
そんなマロリーが愛したのが北ウェールズのエ・リエッズ(Y Lliwedd)の北壁です。 ウェールズ(とイングランド)最高峰のスノウドン山に隣接し、 有名なスノウドン山馬蹄形周回ルートの一部をなすこの山の北壁は、 高さ 300m 近くに及ぶ英国最大級のものです。 現在のロッククライミングの標準と比較すると、むしろ易しいくらい(の ルートがほとんど)ではありますが、岩が脆いため、支点を 取るのは慎重さを要します。大した装備もなかった当時、重厚な 登山靴でこの垂壁を登るのは大変なことだったろうと容易に 想像できるところです。
参考リンク
- http://en.wikipedia.org/wiki/George_Mallory (@wikipedia; 英語)
- 拙メルマガ第71号
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