登山家の視点からの『岳 —ガク—』
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2011年公開の邦画『岳 —ガク—』を遅まきながら観たので、当サイトの趣旨に沿って、クライマーの目から見たレビューを以下に。 純粋に、登山、クライミング、山岳救助として現実性を述べます。 一方、映画の筋や役者の好演あるいは大根演技などは、批評眼がある方々にお任せします。
以下は内容のネタバレ満載なので、ご注意下さい。 また、原作は読んだことがないので、以下はあくまで映画を観ての感想です。
総評
登山を扱った映画として、個々のシーンに関しては、前半は比較的ちゃんと撮影されている。 実際、撮影に登山家と見受けられる影武者スタントマンを使っているところもたくさん見かけられた。 ただし詳しく見れば、それはあり得ない、あるいは経験ある登山家はそんなことはしない、という描写が数多くあった。 なかでもクライマックスの近くは、『バーティカル・リミット』を彷彿とさせる非現実的なできごとや行動のオンパレードで、台無しになっていたのが残念だった。 快晴の時を選んだ冬の北アルプスの撮影(空撮、ロケ)は見事で、北アルプスを登った人ならば見覚えのある風景や場所も随所に見られて、感情移入できる。
登山と救助とに関する具体的な点
- 北アルプスに10メートル(以上)の深さのクレバスは、普通、できない。 雪解けから夏にかけては形成されることもあるが。
- クレバスに落ちて引っかかって止まっている遭難者が意識を失う場面。 意識を失っても落ちないような形で引っかかっているようには見えない。 あの状態ならば、筋力で突っ張ることでそれより深くに落ちないことは可能だろうが、突っ張りが無くなった瞬間、つまり意識を失った瞬間、さらに落下するはず。
- 単独行の人がクレバスに落ちて、救助隊にすぐに連絡があるのは、非現実的。 たまたま近くにいた人が目撃して連絡する可能性はあるものの、そのような描写はない。
- (男性主人公の登山家)三歩が個人的な単独行であるにもかかわらず、携帯している無線で連絡がすぐに取れるのは、現実的ではない。 交信の理由がない限り、(電池消耗を防ぐため)普通はスイッチを切っている。 携帯電話で連絡を取るならば現実的。
- (女性主人公の救助隊初心者)久美が救助ヘリに装備も事前知識や訓練も何もなしに同乗するのはあり得ない。
- 三歩が久美を雪の斜面にいきなり突き落とすシーンはあり得ない。 ピッケルを携帯し、しかし使い方を知らず、そしてリュックサックを背負っている初心者だと、怪我する可能性が少なくなく、登山家ならばそれは常識。
- クライミングの訓練のシーンで、顔をそむけて登るように指示されているが、非常識。
- 運動靴登山で足を捻った救助要請者のもとに救助隊員が駆けつけるとき、肩にかけたスリングで登攀用具をジャラジャラ運んでいるが、非常識。 運動靴で登れるような場所なのだから、登攀用具はザックの中に入れて運ばないと邪魔になるだけ。 『クリフハンガー』のように単に見せびらかしているだけのシーンで残念。
- 久美が一人で登る時、上からのザイルを頼りに登高器を使っている。 オフの単独自主トレ訓練と仮定すればそれ自体は自然ながら、その直後に遭難者のところまで登り切る頃にはなぜか登高器が消えていて、下から自力で登ってきたような描写になっている。 加えれば、職場と無線で連絡を取っているということは、むしろ正規の勤務時間中の訓練のように見えるが、それならば、山中での単独での訓練はあり得ない。
- 久美が打込んだピトンは十分効いていないようだ。 音のピッチが変わっていないし、簡単に深く入り過ぎている。 そんなピトン一本に命を預けるのは無謀。
- 岩棚では遺体回収できず、上に別の遭難者がいて至急駆けつける必要がある、ということで、(三歩が)遺体を岩棚から下に投げ落とすシーンがある。 絶壁の岩棚からはヘリで回収できないことがあること自体は事実。 しかし、別の日にチームで来て、遺体を岩棚から丁寧に引き上げる(下ろす)なり、あるいはヘリのウインチにつなげるなりすればいいだけ。 それより大きな問題として、その「遺体」は数分前までは確かに息があったのだから、医師免許を持たない救助隊員には、法律上、生死の判断はできない。 だから、まだ生きているかも知れない人体を崖下に放り落とすことは、殺人罪に問われるおそれがある。
- 三歩が絶壁から遺体を投げ落とす際、すでに確保支点があるにも関わらず、三歩は自己確保を取っていない。 あり得なくはないものの、慎重な登山家としては、そのようなリスクを冒すのは考えにくい。
- 登山を熟知する三歩が、街で、地図を手に持って見て歩きながらも道に迷うのは考えにくい。 読図できる人ならば、街の地図を見て目的に辿り着くのはたやすい。
- 三歩が(昔のシーンとして)親友と絶壁を登る際、二人ともザイルを使っているにもかかわらず、二人のザイルがつながっていない。 二人で登る際、二人ともが(ザイルを使わない)フリーソロならばあり得るが、二人がそれぞれロープソロによる登攀とは前代未聞。 時間が恐ろしくかかり、危険も倍増では済まない。意味不明。
- 天候の悪化のため、山岳救助ヘリコプターが遭難者一名と救助隊員一名(久美)とを収容した後、もう一人の遭難者を残して現場を去ろうとするシーンはあり得ない。 天候の急変でヘリが去ること自体はあり得る一方、その場合、遭難者を守ってその場に一緒に残るのが救助隊の仕事で、それにふさわしい装備を持っているはず。 実際、久美は、麓から装備を背負って自力で登ったのでさえなく、その場(近く)にヘリで駆けつけたのだから、救助用装備に不足があってはならない。
- 救助要請があった後、三歩がほとんどあっと言う間に下界からその場に歩いてたどり着くのは、山深い北アルプスではあり得ない。 下から歩くならば、(例外はあるものの)ほぼどこであれ、少なくとも数時間はかかる。 現実には、ヘリが使えるならば、救助隊はヘリを使うはず。
- 救助隊地上本部で天気図を見ながら30分で天候が悪化する、と焦るシーンは非常識。 山の局所的な天候が急変すること自体は確かにある一方、天気図を見て分かるほど天候が広域に悪化する予兆ならば、遅くとも 2、3日前には予期できているはず。
- 三歩が無線交信の最中に雪崩で流されるのは、登山家として失格。 無線交信は、雪崩などの危険が無いところで行うのが常識。 逆に、雪崩危険地帯は、仮に足を踏み入れるならば、一目散に駆け抜ける。 加えれば、三歩が雪崩で流された時にザックを失ったということは、万一の雪崩に備えてザックの腰バンドなどは外していた、ということを意味しよう。 そこまで注意深い三歩が、そんな危険地帯で無線交信するのは本質的に矛盾している。
- 三歩は、雪崩にあって流されてザックと手袋を失うものの、ひょいと立ち上がる。 ほぼありえない。 ザックを失うほどの雪崩ならば体が相当もしくは全身埋まっているはずで、それならば、そこから立ち上がるのはよくて極めて困難。 仮に恐ろしく幸運なことに上半身が埋まらずに済んだとしても、少なくとも雪は硬化しているので、その雪をどけて雪崩のデブリから脱出するのは相応の時間がかかる。
- 三歩は、雪崩でザックを失うものの二本のアックスは失っていない。 絶対あり得ないとまでは言わないが、考えにくい。
- 三歩は、その後、失った手袋の代わりに目出帽を使うも、ヤッケのフードをかぶることなく、吹雪の中を進む。 凍傷凍死のおそれだけでなく、そんな状況では(頭が凍えるので)本能的にフードを深くかぶるもの。 映画撮影的には顔を出したいだろうから理解できるとはいえ、リアルではない。
- 三歩は救助隊の誰よりも優秀な登山家であることは周知。 その三歩が遭難したらしい様子を察した救助隊員の一人が、単独で救助に飛び出して行こうとするが、リアルでない。 優秀な三歩さえ(悪天のために)遭難したような状況ならば、技量で劣る救助隊員が単独で駆けつけるのは、救助はおろか自殺行為、そして二重遭難になるのは火を見るよりも明らか。 救助隊員も登山家である以上、隊長にたしなめられるまでもなく、誰よりもよくそれを承知しているはず。
- 天候の回復を待つ久美と遭難者とも雪崩で流される。 救助隊員として大失格もいいところ。 待つ時には、雪崩の危険性が(ごく少)ないところにいなくてはならない。
- 遭難者の足が(雪)氷の間に挟まっているため、その氷をピッケルで崩そうとする久美。 その際のピッケルの使い方が誤っている。その目的であれば、アッズを使わないと。 アッズを使って削れない氷は、原則としてない。 まして、北アルプスの融雪期にできるような雪のクレバスの中であれば、氷でもなくせいぜい硬雪だろうから、ごく簡単に削れるはず。
- ピッケルで、(雪)氷も削れないほど非力な人が、足を切断する、というのは無茶苦茶。 物理的に不可能。
- ただでさえ弱っている遭難者の足を切断するのは、ショックで殺す可能性大。 加えて、事前に大出血防止の手当も施していない。無茶苦茶。
- 猛吹雪の時、それ以上落ちる可能性がなく、上からものが降って来る可能性も無視できるならば、クレバスの中は、風から守られている分、外よりもずっと快適のはず。 吹雪をついてそこから出る理由はない(実際、夕方には天候は回復している)。 まして、怪我人ならばなおさら。 ただし、該当場面の場合、雪崩によって落ち込んだ、ということは、再度雪崩が来て埋まる可能性があることは考慮に入れるべきだろうが。
- 久美が遭難者を背負ってクレバスの壁を登って脱出しようとするのは、無謀かつ理由がない。 その場合、まず一人で脱出して、上で確保支点を作って安全確保を行った後、そこからザイルを垂らして再度クレバス内にもどって、その上からのザイルを頼りに遭難者を引き上げる手立てを講じるのが常道。
- 三歩が、クレバスに久美らが落ちたらしい、と勘づいた後、そのクレバスの対岸の壁向かってアックスを突き刺すべきジャンプするのは、『バーティカル・リミット』を彷彿とさせる抱腹もの。 高いリスクがあるだけで全く意味がない。 実際、三歩は着地に失敗して墜落する。
- 現場にヘリで駆けつけ、特に怪我もない若い久美が、隣の一日登山して片足まで失って満身創痍の中高年男性遭難者より先に息を引き取っているのは、かなり考えにくい。
- 三歩の心臓マッサージ+人工呼吸は、心臓マッサージの回数が多過ぎる。
- 低体温症による呼吸停止と疑われる久美が、その同じ低温環境下での心臓マッサージで蘇生するだろうか?
- 三歩は久美と遭難者とともにクレバスを脱出した後、晴天の下、荷物も持たずに山の雪面を歩いている。 不自然。 天候が回復した以上、手負いのパーティーとしては、できるだけ暖かくしてじっとヘリ救助を待つのが王道。 久美らの救助直前に極寒の雪原に倒れ込むほど疲労困憊していた三歩が、遭難者を背負って、久美に手を貸して、深い山から自力で下山しようとするのは、不自然。
- エピローグで三歩が、かつて救助した人と山で再会して喜ぶシーンは、登山家として共感できる。
映画『岳 —ガク—』の基本データ
- 監督
- 片山修
- 原作漫画『岳 (みんなの山)』(日本語Wikipedia)
- 石塚真一
- 脚本
- 吉田智子
- 主演
- 小栗旬、長澤まさみ
- 公開
- 1991年
- 配給
- 東宝
- http://www.toho.co.jp/movie/lineup/gaku/
参考リンク
- Vertical Limit Guide to Climbing by Tim Kambitsch on YouTube
- Cliffhanger Guide to Climbing Gear by Tim Kambitsch on YouTube
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