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三浦雄一郎氏とアコンカグア「登」山

この1月、86歳の三浦雄一郎氏が、南米最高峰のアコンカグア山(6961m)に登頂を目指していました。

三浦さんは世界的に知られている(冒険的)スキーヤー、登山家です。氏の著名な業績には、80歳で最高齢エベレスト登頂した(2013年)こと、エベレストのSouth Colから初めてスキー滑降した(1970年; 滑落するも九死に一生を得た)ことなどがあります。また、世界七大陸最高峰全峰からの滑降も成功させています(1985年、54歳、ただし、全てが山頂からというわけではない(キリマンジャロの山頂はそもそも滑れるような雪ないし!))。

その七大陸最高峰スキーの最後の山は南アメリカ大陸最高峰アコンカグアでした。つまり、三浦さんはアコンカグアに登頂したことはあります。今回のアコンカグア登頂挑戦は、高齢をおして登る、というところにありました。

アコンカグアは、技術的には、犬も登頂したことがあるくらいの容易さで、普通に歩いて登って行けると聞きます。しかし、高度7000m近くに達するアコンカグアは、肉体への負担は相当です。特に、心肺機能は老化とともに衰える以上、空気の薄い高所登山はきつくなるはずです。86歳の三浦雄一郎氏にとって、それは大いなるチャレンジだったことでしょう。

悲劇的な比較ですが、過去、三浦さんとエベレスト登山の最高齢登山を競っていた(し、記録更新したこともある)ネパール人登山家のミン・バハドゥール・シェルチャンさんは、三浦さんの最高齢登山記録を再度破ろうと85歳でのエベレスト登頂を目指した時、ベースキャンプで死亡しました……。具体的な死因は知りませんが、高所登山による身体への負担が大きかったのが要因の一つだったことと想像に難くありません。

さて今回のアコンカグア登山で、三浦さんは、結局、高度6000m付近の前進キャンプでドクターストップがかかって断念して下山してきたと報道されました

それだけならば、残念でした、または無事下山されて何よりでした、で終わりそうなのですが……、その前後の「登山」スタイルを聞いて、大いに引っかかりました。以下、その点について論じます。

2018/07/26 - 09:34 - Setting off hike to the high-camp to ArtesonrajuSetting off hike to the high-camp to Artesonraju

もしヘリコプターで上まで行けば、どんなに楽なことか……。
(アンデス山脈のアーテソンラフ山登山にて)


報道によれば、三浦さんは、登る時、高度4200mのベースキャンプにしばらく滞在して高度順応した後、5580mの前進キャンプまでヘリコプターで移動されたそうです。そこから高度6000m程度まで登って、そこで体力的な問題で(医者の説得を受けて)、登頂を断念してそこからヘリで下山した、ということでした。

高度7000mに満たないアコンカグア登山の場合、普通は酸素ボンベは必要ありません。歩いてゆっくり登ることで徐々に高度順応していくことで、普通の人は酸素ボンベ無しでも十分であり、またそうして体を馴らすことが安全でもあるからです。まして、それよりずっと低い(三浦さんがヘリで移動した)5500m前後の高度では、緊急時を除けば酸素は使いません。それこそ、エベレストだったら、ベースキャンプの高度が 5400mです。エベレストのベースキャンプは、季節には、登山グループもさることながらトレッカーで賑わう、と聞くくらいです。空気は随分と薄いとは言え、十分に高度順応している条件で、人間が普通に生活できる高度です。

しかし、三浦さんの場合、ベースキャンプの高度4200mから前進キャンプ(5580m)まで 1600mもの高度差をヘリで一気に稼ぎました。その場合、何もしないと多かれ少なかれ急性高山病にかかることが保証されているでしょう。だから、その時点から以降、三浦さんは酸素ボンベを使っていたそうです。

そんな「登り」方、つまりヘリコプターで高度を稼いで、荷揚げした酸素ボンベで高度順応不足を何とか補う、というお大尽な方法が、大いに疑問です。


もし、山頂に立つことだけが目的ならば、ヘリで山頂まで行けばいいんです。今生のうちに(もう)一度アコンカグアの山頂に立ちたい、と願った人が、手段を問わずそうしても、それは(筆者は)全く問題に感じません。でも、それは「登」山ではありません。「登」山というからには、人力で登らないと。

高所登山の場合は、ベースキャンプから上を人力で登ることが、登頂と見なされる一般基準です。ベースキャンプまでどう移動するか(歩いて行くも、車やヘリで行くも)は、問われないけれど、そこから上でもヘリを使うと、それはちょっと……。

有名な例に、2014年、王静(Wang Jing)と言う女性登山家が、エベレストで、ベースキャンプから上部の前進キャンプまでヘリで一気に行ってそこから登頂した(下山も前進キャンプからヘリ使用)ことで、国際的に非難された事件がありました。その年、雪崩で標準登山ルートの下部が崩壊したため、エベレスト登頂を目指していた他の多く(ほぼ全て?)のグループは、登頂を断念していたものでした。

結局、スポーツにせよ、冒険にせよ、そこには成文化されているか不文律かはともかく、前提条件があります。

例えば、日本の弓道で、的を矢で射抜くことだけが目的ならば、照準器付きのクロスボウ(弩)にすれば、ずっと正確でしょう。いや、いっそ、もし何かで的を射抜けばいいのであれば、光学照準器やレーザー照準器付きのライフルで撃てば、弓道の的の大きさならば、素人でも百発百中だと想像します。でも、それは弓道でもなければ、何らかのチャレンジでさえない。百発百中なのだから。

冒険にしても、冒険が冒険として成立するためには、常識的な不文律がありましょう。例えば、アムンゼンの時代であれば、手段を問わず南極点に到達するのが一大事業でしたが、今ならば、飛行機で行けます(極めて高価だけど)。南極横断やシベリア横断の「冒険」するとしても、金さえあれば、軍隊並みのチームを動員して、ヘリコプターやジープや重機で先回りして、毎日の行程の予定到達点に暖房食料寝床完備の山小屋を建てて回っていることも、原理的に可能です。でも、それだと冒険とはとても言えないでしょう!

登山の場合も完全に同じです。

例えば、北アルプスの槍ヶ岳に下界から登頂して下山するには、無雪期でも3日かかるのが普通です。一方、もし下界から山頂直下の槍ヶ岳小屋までヘリコプターで行ったら、普通の人でも 30分くらいで山頂に立つことができます。つまり、下界から1時間あまりで山頂往復も可能です。しかしそれをもって、槍ヶ岳を登山した、と主張されると、大いに違和感を感じます。

重機で山を切り崩すことも可能な時代、ヘリで山頂に立つことも簡単な時代、敢えて人力で困難なルートから登ることが、登山のスピリットでしょう。どこに行ったかではなく、どのように行ったか、こそが問われる点であり、登山の意義はそこにあります。いや、そこにしかありません。

自分の力の人力だけでは登れないからと言って、金や機械を使ってショートカットしていたら、それは登山とは異なる何かです。ヨセミテの巨大な垂壁を自分は登れないから、では梯子をかけちゃいましょう、階段を作っちゃいましょう、いやヘリで吊り上げてもらいましょう、と言うようなものですね。そして、いっそ下から山頂まで一気にヘリで行くならば、少なくともリスクは最小ですが、半分だけヘリを使っていたら、中途半端に体力が要求されてリスクだけ高くて、意味不明の行動です。アコンカグアで、ベースキャンプから前進キャンプまでだけヘリを使ったことは、まさにそういう行動でしょう。

登山家、あるいは冒険家であればあるほど、「どのように」の違いには真剣になるのが普通です。他の人がすることに意見するかどうかは別として、少なくとも、ズルした人は評価しないし、自分の行動規範としてはそれは論外、とするものです。

そして、そういう高いモラルを持ったアスリートとしての登山家こそが尊敬されます。良い例は、エベレストを人類初の無酸素登頂したラインホルト・メスナーです。メスナーが使わなかったのは酸素ボンベだけではありません。それ以前の登山チームが山に残した残置支点などを敢えて無視して、ベースキャンプから自力で登ったそうです。それがメスナーの倫理観でした。各登山家がどうこだわるかどうかは各人の倫理によるとしても(現実にはそこまで拘る人は限られます)、メスナーの偉大さには異論を挟む余地がありません。偉人かくありき。

アコンカグアにヘリで登るとして、それが芸能人が芸能活動として金にあかせてやるならば、他の人(登山家)に迷惑をかけたり後を濁したりしない限りにおいて、どうぞご自由に、と筆者は思います。その時、そこに何らかの個人的努力目標を設定すること、例えば最後の100メートルだけは自分の足で歩く、とかももちろん自由です。それらは登山家が定義するような登山ではないけれども、それは別の話。しかし、登山家を自称する人、それも功成り名遂げた方が、「登山」を名乗って行う行動としては、大いに眉を潜めます。

山は高山だけでは、アコンカグアだけではありません。世界中に無数の山があります。100メートルの低山どころか、4メートルの壁を登ろうとして四苦八苦するスポーツ(ボルダリング)も人気急上昇中というものです。年齢であれ障害であれ、ハンデがある人でも、山で自らの背丈にあった挑戦を見つけることは難しくありません。自然に正対して自らの限界に挑戦し続ける限り、その方は生涯、尊敬に値する登山家と言えるでしょう。人間の力で何ができるかを示す人間賛歌を謳うことこそ、登山(に限らずスポーツ)の価値ではないでしょうか。

対して、メディアや世間の注目を引きそうな山を目的ありきで選んで、自分の限界を超えていたら金や機械の力でもって挑戦を自分のレベルに落とす、という姿勢は、登山のスピリットの対極にあると思います。有名人の、金にものを言わせたスタントに聞こえてなりません。三浦さんの過去の偉業を知っていて大いに敬意を抱いているだけに、今回の行動はとても残念に、敢えて言えば晩節を汚すもののように、感じました。

[追記(2019-01-26)] 本人談で、体重が90kgほど(参考: 氏の身長は164cmほど)だったそうです。その体重身長比だと、30台の壮年でもアコンカグア登山は非常に厳しいでしょう。理想的体重に比べて30kg以上の重荷を背負っているのとほぼ同じことなので。ましてや心臓に持病もある高齢者だと……。ハンデ(持病や年齢)がある人が、人事を尽くした上での挑戦ならば、尊敬に値します。しかし、不摂生な高齢者が「体力/年齢の限界に挑む」と銘打って、かつ金を湯水のように使って行うことは、スタントの誹りを免れない、と認識を確認することになりました。

ちなみに、前述の登山家メスナーが、80〜90年代、日本の登山隊に対する批判的姿勢を鮮明にしていた意見を読んだことがあります。日本隊が世界中の山を登っていた当時、日本人登山家の海外の高所登山は、軍隊的な大勢の協力により、手段を問わず山頂に達する、あるいはルートを登るスタイル(包囲法あるいは極地法)が主流でした。さすがにヘリを使った、と言う話は聞かないものの、穿った見方をすれば、それは単に資金不足だったからかも知れません。対照的に、メスナーは、少数精鋭で完全に自力で一気に登るアルパイン・スタイルの唱導者であり、実践者でした。手段を選ばない登山に何の意味があるのか、がメスナーの問いかけだったと、筆者は解釈しています。技術の発達により世界がますます狭くなっている現代、今まで以上に厳しく「どのように」登るかが、登山に問われていましょう。今回の三浦さんの件に触れ、そんなことを考えました。

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