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音楽著作権とYoutube動画


1 Youtube動画での音楽著作権侵害のリスク

88 (Eighty eight)という音楽グループ(2023年5月時点でYoutube登録者3万人あまりでメンバーシップあり)が、同チャンネルのかなり以前のあるストリートピアノ演奏Youtube動画につき、

「Youtubeから著作権にかかる警告を受けて、強制削除された。それに伴い、チャンネル閉鎖のリスクを避けるために過去のカバー動画をすべて(約1000本)自主的に削除した。今後、生配信ではカバーは避ける。」

というアナウンスを2023年4月末の動画でしていました。ぎょっとしました。 https://youtu.be/GkWhAzfcDJo

もし仮にカバー演奏動画がダメならば、他の音楽家のポップスのカバーやアレンジ動画ほぼすべてだめになりかねないので、これは重大問題です……。

Youtube上の音楽の著作権について私の理解をまとめると以下になります。実は2022年4月1日にJASRACの方で制度に大きな変更があったと、勉強し直してみて初めて知りました……。以下の理解は、それを反映しています。


  1. クラシックは著作権が切れているので、自分で演奏する限りは、問題ない。
    • ただし、クラシックをアレンジした曲には編曲者や作詞者の著作権は存在する可能性がある(例: 平原綾香が歌ったことで有名な『Jupiter』歌唱バージョン(吉元由美作詞))
  2. 邦楽は大半はJASRACかNexToneが著作権管理している。
    • 洋楽は色々で、JASRACが委託管理している場合もあれば、そうでない場合もあるらしい。
    • NexToneの生みの親はAvexとソニーで現在も大株主、つまり関連会社。従来は日本の楽曲の音楽著作権はJASRACが独占していたところ、NexToneが20年ほど前に生まれた。ただし、NexToneが大規模に市場参入したのは比較的最近かも知れない(2020年に東証上場、2022年に欧州大手との契約締結)。
  3. JASRACもNexToneもYoutubeとは包括契約しているので、JASRACまたはNexToneがネット公開や生配信の権限管轄している曲については、その曲を演奏した動画は普通はYoutube公開に問題ない。なお、アーカイブの残らない生配信と半永久的に閲覧可能な動画とは扱いが異なる可能性を否定しない。特に、有料コンサートの同時生中継になるとそれは私は知らない。
    1. JASRACはInstagram, Tiktok, Facebookとも包括契約しているが、NexToneの方はよくわからなかった。補足すれば、東洋大学法学部安藤和宏教授によれば2020年12月時点でNexToneとそれらは包括契約しているらしい。しかし、NexTone本家では確認できなかったものだ。他に、ツイキャスはツイキャス本家がJASRACおよびNextoneとの包括契約を明言している。ニコニコ動画は少なくともJASRACとは包括契約している。“17 Live”はJASRACと包括契約しているものの、それは歌が直接は入っていない曲に限り、また毎回のライブ後に使用曲を自己申請する必要があるらしい。SHOWROOMはJASRACとNexToneと包括契約しているが、それはあくまで演奏だけであり、CDやカラオケ音源は配信者が(JASRACなどから)個別に許諾を得る必要があるらしい(SHOWROOM「権利に関するガイドページ」)。つまり、楽曲使用のガイドラインはプラットフォームによってそれぞれである。
    2. TwitterはJASRACなどと包括契約していない。したがって、Twitterに音楽を投稿するのは、著作権的には問題が生じる可能性がある(JASRACと個人契約することは可能のようだ——JASRACに問い合わせた人の証言(2019年6月))。Twitterの場合、(青バッジユーザーでない限り)動画投稿は2分20秒以内と比較的短いものに限られることから、埋め込み動画での使用音楽は「本投稿に付随する引用」と見做すと主張することができる場合はあるだろう。ただし、本投稿との内容量の比較や、動画の長さや、音楽の使用量など、さまざまな要素が絡むので、一概には言えない。少なくとも、Twitterにおいて動画だけを投稿した場合は、それを「本投稿(tweet)に付随する引用」とする主張は当然、成り立たない。
    3. 余談ながら、JASRACの課金体系は基本的に、印刷物およびレコード(テープ/CD)出版とラジオ放送とテレビ放映しかなかった時代のママだと個人的には感じる。それを2023年のネット全盛時代に無理に適用しようとして、いろいろな歪みが生じて、結果的に日本の音楽文化振興、そしてそれ以上に日本から世界への音楽文化発信、への足枷になっているのではないか、というのが私が恐れているところではある……。地域制限などがその典型だ。
  4. 著作権は、財産的権利(狭義の著作権)と人格的権利(著作者人格権)の2つに大別される。邦楽については通常は、前者はJASRACまたはNexToneが管理するのに対し、後者は著作者またはその代理人が管理する。編曲やアレンジは、原則として狭義の著作権の中の翻訳権・翻案権等(著作権法第27条)の問題である、すなわち通常はJASRACまたはNexToneの管轄下にある。
  5. 邦楽においても、それぞれの曲について、JASRACとNexToneの間で狭義の著作権の内訳について管轄がわかれることがある(JASRACの運用上は、曲ごとではなくて著作権者と音楽出版社ごとに統一する原則になっているようだ)。たとえば、『ロマンスの神様』(広瀬香美作詞作曲)は狭義の著作権がすべてJASRAC管轄下。『ハラミ体操』や『ファンファーレ』(ハラミちゃん作曲)は、演奏会演奏はJASRAC管轄である一方、ネット上の利用や楽譜出版はNexTone管轄。『魔法の絨毯』(川崎鷹也作詞作曲)は演奏会演奏はJASRAC管轄、ネット上の利用はNexTone管轄、しかし楽譜出版は別。そこから類推して、邦楽でも、曲によっては、ネット上の利用の管轄がJASRACでもNexToneでもない場合もあるのかも知れない。そしてそのような特殊な例の場合、Youtubeでどう扱われるかは私は知らない。
  6. 音楽を自分で演奏したYoutube動画の場合、広告収入の一部(もしくは大半)が半自動的に著作権者に回るだけであり、普通は問題にならない。条件は、前述のように、演奏した楽曲の著作権がないか、もしくは著作権がJASRACやNextone(あるいは外国における同様の機関)の管轄下にあって(半必然的にYoutube使用が)認められていること。大抵の楽曲はこの条件に当てはまるはず、という次第。
    • 参考までに、プロYoutuber (ここではYoutubeで「アフィリエイト」により動画再生数に応じて広告収入を得ている人を指すことにする)は、自分のチャンネルの特定の動画について広告収入を辞退するよう設定することができるが、その場合でも、視聴者がその動画を閲覧した時に、依然として広告は表示されることが多いようだ——広告頻度は減るかも知れないが。それは、チャンネル所有者(Youtuber)分の広告(収入)をゼロと設定したにしても、他の費用は依然として発生するからだろう。端的には、Youtube社は自社のリソースを使って動画を流していて、また動画再生されるたびに動画内の音楽著作権の管理者(日本の楽曲ならばJASRAC/NexTone)への支払いが発生する。だから、その動画に付随して広告を表示することでその広告収入をそれら目的に充てるのは自然であろう。
  7. ただし、Youtubeで演奏する場合でも、編曲においては、(JASRACの管轄外である)著作者人格権のうちで同一性保持権(著作権法第20条)が関わることはあり得る。著作者人格権は「原則的には」著作者死亡により消滅する(参考: 「著作者にはどんな権利がある?」公益社団法人著作権情報センター)。ただし、著作権法第60条(著作者が存しなくなった後における人格的利益の保護)と第116条(著作者又は実演家の死後における人格的利益の保護のための措置)とにより2親等以下の遺族または遺言に定める権利者がその権利行使できるとされてはいる(から直系遺族は訴えることができる)。著作者人格権とは、典型的なケースとしては、著作者をあからさまに侮辱するような形でのアレンジなどは権利侵害にあたる、ということ。さらに突っ込んで、著作者が意図しない形でのアレンジについて許されるかどうかは微妙でケース・バイ・ケースの問題。いずれにせよ、著作者人格権に関しては、JASRACは全く関知しない。あくまで著作権者本人または代理人が訴えるかどうかの問題である(親告罪——文部科学省の解説)。
    1. 文芸作品の実例として、『ちびまる子ちゃん』のTwitter上の二次創作作品『シャブまる子』(薬物中毒に陥ったまる子がはまじの助けを借りて更生を決意するストーリーらしい)が、作者の故さくらももこ氏の公式(遺族?)から警告を受けて二次創作作品投稿をすべて削除したと報道されたことがある。
    2. 音楽では有名な例が「大地讃頌(さんしょう)事件」。2003年にPE’Zが、元々は合唱曲の『大地讃頌』をジャズ風編曲したCDを東芝EMIから発売したところ、作曲者の佐藤眞氏が販売差し止めを裁判所に求めた事件。東芝EMは自主的出荷停止とした。この場合、PE’Zにとって不幸だったのは、著作権のうちで多くの権利は佐藤氏が(直接)JASRACに信託譲渡していた一方で、編曲権に関しては佐藤氏本人が直接管理していたことだった(ちなみに2023年現在の今でこそ楽曲ごとのそのような権利分割状況は分かりやすくなっているが、当時はおそらく不明瞭だったのだろう)。PE’Z側(もしくは東芝EMI)は販売前に当然JASRACに連絡して普通に許諾は受けていたものの、佐藤氏本人に編曲確認までは取っていなかった。もし仮に佐藤氏本人が他の著作権も管理していたならば、PE’Z側は販売前に当然佐藤氏本人に連絡を取っていて、その段階で交渉なりあるいは取り止めなりできたことだっただろう。端的には、法律と業界の実務の慣例に乖離があったことから問題が生じてしまったと総括できるらしい(安藤和宏(2021年)に拠る)。なお、この件は、あくまで東芝EMIが自主的出荷停止して和解したものであって、最終的な判決が出たわけではないことに注意。つまり、作曲者の佐藤眞氏が敗訴していた可能性も(十分に?)ある。著作権法第20条の同一性保持権には、同第20条の第2項の制限条項があって、平たく言えば常識的に許される範囲ならば(著作者は)無理を言えないことになっている。法廷で決着をつけない限り、解釈は自明ではないようだ。
  8. ポップスのピアノなどの器楽演奏は、既存の(その楽器などの?)楽譜に忠実にそっているものならば単にその演奏であり、もし自分でたとえば耳コピなどでアレンジして弾いたならば編曲の演奏に相当する。著作権が問題になるのは、後者は作曲者に対してで、前者は編曲者に対してであろう(それ以外の、たとえば作詞者に対する権利は、おそらく問題にならないと私は推測するが、自信はない)。
  9. 歌を歌えば、よほど大きくアレンジしない限りは、それは原曲の演奏と見做されるか? (“88”のケースで問題になった該当動画で歌を歌っていたかどうかは私は知らない。)
  10. Youtube動画においては、前述のように、通常は、再生数などに応じてYoutube社から著作権者(の代理組織)に黙って著作権料が支払われるだけである。しかし、明白で重大な著作権侵害があった場合は削除されることがある。たとえば、Youtube Musicで公開されている音楽MVをただコピーして公開した動画は当然盗作になるために、削除されるだろう。削除については、Youtubeが自動的に判定する場合もあれば、著作権者が削除申請することもある。その際、著作者人格権侵害については、Youtubeが自動判断することがないのはほぼ確実で、JASRACに至っては完全に管轄外だから、著作権者が訴え出て削除申請するしかないはずだ。そうした削除申請を受けて、かつそれがYoutubeに認められた時は、削除される。なお、Youtube動画削除申請においては、著作権者の選択によって猶予付きと即時削除があるが、現実には後者が多いらしい。

というわけで、普通は、Youtube上の邦楽のストリートピアノ演奏動画について、著作権が問題になるケースはほぼないと思うのですが……。広告収入のうちの一定割合が自動的に著作権者にいく、というだけで。

実際に動画削除の憂き目にあった「88」のケースはなかなか考えにくいです……(同情しかありません)。何か運悪く当たったのか、あるいはYoutube社が誤判断したのか。 問題になり得る例外として、そして(Youtube社の単なる運営上のミスやあるいは後述するような悪意ある誰かの行動の結果ではなくて)一定の理があると私が考えつくケースは次の2つです。

  1. ネット上の利用についてJASRAC管轄外かつNexTone管轄外の曲であって、かつ著作権者が著作権料(広告収入)申請ではなくて動画の削除を望む場合
  2. 著作者人格権侵害(たとえば同一性保持権侵害)について著作権者(または代理人)がYoutubeに訴えて動画の削除を望む場合

もちろんいずれも、訴えたら自動的に動画削除になるわけではなくて、Youtube側で審査が当然あるでしょうが。

実は、本来自分に著作権がない演奏動画について、Youtubeに対して、著作権料を請求するヤクザな組織は結構あるとは聞きます。ある(銀の盾の)音楽家が、クラシックを演奏した(複数の?)動画についてある大手会社から著作権料を請求されて、抗議して戦っていた話も聞いたことあります。クラシックの演奏について著作権料請求とはなかなか大胆に聞こえますが。一体、どういう理屈なのか。

また、個人的には、「free」と銘打たれて公開されていた音楽をBGMとしてYoutube動画内で使った際(動画の長さの5%くらい)、Youtubeから「広告収入はすべてBGM著作権者に回る」という連絡が来たことがあります。つまり、「free」と銘打って公開しておいて、それとは別に音楽を有料登録しておくことで、誰かがそれをYoutubeで使ってくれると自分に広告収入が入る、というビジネスモデルだったようです。私の動画では音源を直接使っていたから、(Youtube社が)自動検出もしやすかったのでしょう。

最近、TBSが、同局の宇内アナが登場するゲームSEKIROについて著作権を(誤って)主張した結果、同ゲームの実況Youtube動画によるYoutubersの収益が(過去にわたって遡及的に)一旦停止される、という事件があって炎上していました(matomedane.jpによるまとめ記事)。

その件について、被害者Youtuberの一人が推測するには、

その結果、(たとえば)ある人が3年前にあげた動画につき、TBSが7日前にあげた動画と同じシーンが使われている(!)から著作権違反だ、と主張する、という事態になったというわけです。事実上、タイムマシンを使った、という噴飯物の主張! そしてYoutubeはTBSの方の言い分を認めた……(その後どうなったかは私は追跡していません)。ゲーム実況Youtubersの方は生活もかかっていますし、炎上も当然です。

Youtubeとは関係ありませんが、Ed Sheeranが、代表作『Shape of You』について、盗作容疑で(無名のアーティストに)英国で訴えられていた事件もありました。曰く、同曲のフレーズ “Oh I” が、訴訟者の持ち曲『Oh why』に酷似していると。言いがかりに聞こえますが? 結局、Sheeran勝訴で先方は莫大な弁護費用負担を命じられました(BBC News 2022-04-06)。

というように、著作権をめぐるいやらしい事件、端的には著作権を利用して不当に儲けようとする輩は、世界にはそれなりにいるようです。TBSの例は故意ではないのでしょうが(仮に故意ならばあまりにも非常識で愚か)、誤操作やあるいは何かのすれ違いであってもそういうことは起こり得る典型例です。だから、Youtubeにおいて仮に抗議されたり動画削除されたからと言って、常に自分が(倫理的に)悪いわけではないのは心に留めておいていいでしょう。もちろん、Youtube動画がYoutube社によって削除されてしまってそれを放置していたら、自分が悪かったことを認めたことになるので、Youtube内でのレーティングが下がって自分が不利益を被る(最悪はバン)リスクはあるわけですが……。

一般論としては、自分で演奏した「普通の」「個人的な」邦楽カバー演奏動画があって、その動画自体の所有権が確実に自分にある場合(カメラマンにはちゃんと確認しましょう)、その動画が警告なし強制削除の憂き目にあうことはまずないと思います。例外的に、イベントなどで演奏した場合は、主催者の方針などもあり得るからそれはケース・バイ・ケースですが。海外の曲も、少なくとも西側主要国の音楽に関しては問題ないと推測します。 そして仮に何らかの理由(←誤判断を含む)である動画が強制消去されることがあっても、それが稀だろうことを鑑みれば、それが原因でアカウントのバンに至ることはさらに考えにくいです。

なお、有名Youtubersに関しては、有名人だけに、誰か悪意を持った者が狙って攻撃してくる可能性(たとえば全く関係なく著作権もない第三者による理不尽な削除要請)はゼロではないとは恐れます。でも、著作権法とその運用は上記のようになっている以上、無用に心配することはないというのが私の結論です。アーティスト(Youtuber)の方に分がある。もしどれか特定のごく一部の動画について問題が生じて、かつ争うのが面倒ならば、その動画を非公開にすれば済む話が普通ではありましょう。

もちろん、Youtubeの内部事情を知るよしもない私に言えることは、リスクはとても低いだろうという推測だけであり、何の保証もありませんが!


2 著作者人格権侵害について

「88」が被ったトラブルにつき、その原因として、著作者人格権侵害(おそらくは同一性保持権侵害)で訴えられた可能性を上で論じました。ここでは、同一性保持権侵害について、さらに考察します。

同一性保持権とは、音楽では、著作権者が(一部あるいは全面的な)アレンジ(あるいは作詞であれば替え歌)に制限をつけ、ある程度以上違ったものは許さない、とする権利を指します。

上述の「大地讃頌事件」が音楽の同一性保持権をめぐって実際に法廷に持ち込まれた稀な例として有名です(ただし法廷で決着がつくまえに和解した)。念のため、著作者人格権侵害の中の同一性保持権とは、あくまで「元々は同じ作品として主張されているもののバリエーション」についての話であって、「別の作品が酷似していた」かどうか、つまり「パクリ」かどうかという通常の著作権とは全く異なります——後者ならば訴訟例はたくさんあることでしょう(例: 「しまじろうのわお!」事件)。あるいは、ドラゴンクエストBGMを作曲したすぎやまこういちさんが原曲主義であったとして知られているようです(たとえばスギヤマ工房のFAQ——あくまで方針の一部が窺えるだけですが)。

何が許されて何が許されないかは、結局、

  1. 著作者が同一性保持権についてどこまで気にしていて、
  2. 著作者が主張する同一性保持権の範囲が道徳的にどこまで尊重されるべきであり、
  3. また法的にどこまで認められるか、

の3点が問題になりましょう。ポイント(1)につき、著作権者が何でも好きなようにアレンジしてくれて結構、と言うのであれば、それで全然構わないことになります。結局、著作権法における著作者人格権は親告罪(参考: 文部科学省の解説)です。だから、著作権者(または法定代理人または本人の権利を引き継ぐ2親等までの遺族)が許容できないと感じ、直接被害を被ったと主張して告発しない限りは訴えられることはありません。

たとえば、広瀬香美さんが最近のTiktok動画にて、自身の曲『Promise』について10年あまり前から動画で「遊ばれた」ことについて感想を述べていました。曰く、昔はやめて欲しいと思っていたけれど、今はそのように遊ばれるのは歓迎、という気持ち、ただし「あれ以上卑猥にならないで欲しい」と。だから、それが、香美さんにとっての基準ということでしょう。 逆に言えば、その当時な卑猥な動画も、正式に訴えるほどではなくて看過したわけです。だから問題になることはありませんでした。

次に、本人がいや認められない、と感じた時は、ポイント(2)(3)の複雑な線引きの問題になりますね。著作者が何かを主張するのは自由です。そもそも言論の自由がありますし。たとえば、著作者本人が認めた用途やアレンジ以外は一切許さない、と著作者が主張するのは一つの考え方ではありますか。それが上の(2)の線引きですね。線引の度合いは、相当程度は主観的である、つまり人によって感じ方は異なるところでしょう。

しかし、実際にオリジナルからどの程度ずれたら著作者の強権によって実際に差し止めなり損害賠償請求が認められるか(上の線引き(3))は別問題です。たとえば、誰かが演奏した時に、著作者の意に沿わなかったからと言って「常に」損害賠償などの責を負うわけでは(当然)ないでしょう。極論すれば、演奏が下手で著作者の作曲意図が十分に反映されなかった、として著作者が同一性保持権侵害で訴えても、常識的に考えて、線引き(3)としてそれは通らないことでしょう。

ちなみに法学的には、過失が認定されるのは「人が払うことを通常期待される程度の注意」(山本隆司 2007)を怠った時になるそうです。音楽の同一性保持権については過去の判例がほぼ存在しない以上、(3)の線引きは実はよくわからない、というのが実情でしょうか。

もう一点、仮に同一性保持権侵害が認められたとして、被告に何が要求され得るかも考慮に値します。もし莫大な損害賠償請求まで命じられる可能性があれば、リスクがとても高くなり得ます。

著作者自身の死後の遺族による請求の場合は単純で、差止めと名誉回復に限られ、損害賠償の請求は通常認められていません(著作権法第116条)。たとえば前述のすぎやまこういちさんはすでに死んでいるので、もし仮に遺族が同一性保持権侵害などで訴えたとしても、CD販売の差止めや動画公開の中止が認められることはあっても、それにかかる損害賠償の請求は認められない、ということになります。 ただし、例外的に、(音楽ではない)著作物の改変に対して遺族の精神的損害が認められた判例がないわけではないそうですが(のれん事件: 参考『著作者人格権侵害に基づく損害の額の算定 by 山本隆司』)。

一般論としては、著作者存命の時も、音楽に関する著作者人格権侵害は、故意であったりあまりに非常識的でない限りは、何か多額の損害賠償請求が認められることは考えにくいように感じますが……どうなのでしょう。特に、たとえばイベントなどですでに行われた一過性のことに対しては、差止めはもうできませんし(アーカイブを販売や配布していればその差止めはあり得ますが)、よほど悪質でない限りは、損害賠償請求が認められる可能性は低いと推測します。いずれも素人意見ではありますが。

結論として、音楽にかかる同一性保持権は、明白な悪意があるようなアレンジであれば別ですが、境界は広くて、侵害に対する線引きの法的判断は難しい分野であることは間違いなさそうです。


3 文化的側面から見た著作権

3点、関連して、本質的な点についてコメントしておきます。

3.1 物故アーティストと作品

アートの一般論としては、制限をつければつけるほど、作品は早く消えていくことになりましょう。使いにくいものは皆さん、使いたがらないから。アーティストの意志はもちろん尊重すべきでありされるべきであることは言を俟ちませんが、事実として、作品が早く消えがちなのは否定し難い。

たとえば、スギヤマ工房の「よくあるご質問と答え」によれば、(すぎやまこういち作曲の)ドラゴンクエストの楽曲を結婚式会場で演奏するのは(JASRACの包括契約対象だから)問題ない一方、「動画サイトで公開することはお断り」となっています。ならば、結婚式の動画をあげたいと考える人が少なくない現代、結婚式でドラゴンクエストの楽曲を演奏したくなる人が必然的に少なくなることを意味しますね。あるいは、リクエスト曲を即興で演奏するようなパフォーマンスにおいて、ドラゴンクエストの楽曲は敬遠されることになります。

そして、アーティストが亡くなった後は、それはそのアーティストが世間からより早く忘れられていくことを意味します。一般論としては、それこそパロディでも何でも使われた方が、その人の名前はより長く残りましょう。そして一般論としては、名前が長く記憶されることこそ、物故アーティストへの何よりの手向けだという気はします。

もちろん、自分が死んだ後はなるべく早く世から忘れられたい、という遺志があるならば、それは尊重されて然るべきではありましょうか。いわゆる「忘れられる権利」です。微妙なところはありましょうか。 すぎやまこういちさんの場合にどうであるかは、私は知りません。

3.2 同一性保持権に強く拘る動機

2点目、著作者人格権の中の同一性保持権にこだわり、アレンジに対しても非寛容であるアーティストにつき、その動機について考察してみます。

一つの可能性は、単純に、自分の創作作品に似た変種を許したくない、という感情でしょう。ここで、「他の人の作品において自分の創作作品をオリジナルと称するならば」という条件は必ずしもつかない、いやおそらく多くの場合はつかないことに要注意です。たとえば、「大地讃頌事件」においては、作曲者の佐藤眞氏が、原曲をジャズ編曲したPE’Zの演奏CDについて販売差し止めを求めました(念のため、裁判所にて法的な黒白はついていません)。その要求が、「『大地讃頌』を原曲クレジットからはずせ」(つまりCDの曲は編曲ではなくて似て非なる完全に別の曲と名乗れ、原曲者の自分への著作権料も当然断る)であったのであれば、それは「自分の創作作品をオリジナルと名乗られること」への不快感であると理解できます。そしてそれならば、おそらく多くの二次創作者は納得するでしょう……そもそも世の地下パロディーの少なからずは原作にクレジットしていなくて、受け取り側が察することに期待するものでしょうし。しかし、(おそらくですが)「大地讃頌事件」はそうではなく、PE’Zの編曲演奏をただ許さない、と主張したものだと思われます。だから、これは、自分の創作作品に似た変種のうちで自分が気に入らないものを許したくない、という作者の感情が動機ということになります。

もう一つ、あり得る動機として経済的なものも考えられます。一般に、編曲者には編曲著作権が認められます。ということは、取らぬ狸の皮算用的ではあるものの、原著作権者(作曲者、作詞者、原編曲者)の著作権料が減る可能性があります。「大地讃頌事件」を例にとると、作曲者が佐藤眞で編曲者は登録されていない、すなわち作曲者+原編曲者が佐藤眞になってます。仮に誰かがPE’Zの編曲バージョンの『大地讃頌』を演奏したり楽譜出版した場合、その人が納める著作権料のうちで一部(編曲者の分?)は編曲者に回るため、作曲者+原編曲者の佐藤眞氏の取り分は少なくなります。何重に編曲されていようが、納めるべき著作権料は通常一定だからです。

客観的観点からは、可能性としては、PE’Zの編曲バージョンが傑作で大ヒットして、そのために作曲者の佐藤眞氏が大儲けすることもあり得るわけだから、「損する」とは全く限りません。売れるのが編曲であれ原曲であれ、作曲者には必ず相応の著作権料が入ってくるから、どちらであれ一部売れるごとに作曲者の収入は必ずプラスになります。「損する」という主張はあくまで、本来100万円入ってよさそうなところ、90万円しか入らなかった、というような主観的主張に過ぎません。本来100万円入る、という予想自体が実は成立しないこと、つまり前提からして崩れること、はよくありましょう。

一般論としては、作品についてむしろ色々なバージョンが出れば出るほど人々によく知られることになって、加速度的に売れることになる可能性の方が高いとは推察します。異なるバージョンが出ることで、異なる客層やファン層に知られたりしますし、原曲が見直されることさえありますし。たとえばハラミちゃんが2021年にピアノアレンジで弾いた『異邦人』(久保田早紀作詞作曲、1979年)を小学生がピアノで真似したことがありました。令和の小学生にとって昭和の曲『異邦人』は初耳だったことでしょう。ハラミちゃんアレンジがあってこそ初めて知られたのです。あるいは、2023年春に、ある人が作ったYOASOBI『アイドル』との “MAD動画”『完璧で究極のゲッター』がバズった結果として、その原曲であるJAM Projectによる(23年前のゲッターロボOPの)『Storm』が週間チャート1位になったこともありました。JAM Projectとしては、望外の大ヒットです。

だからでしょう、少なくともポップスの世界であれば、誰かが自分の曲を(一般には編曲込みで)カバーしてくれたら、それはありがたいことだとむしろ感謝することの方が普通だと認識しています。ただし、ポップスの世界でも例外はあるらしいです。編曲やカバーを嫌がる意図について、「まだ売れていない新人の曲が大御所に『取られる』ことを恐れる気持ちだろうか」と広瀬香美さんが憶測していたのを聞いたことはあります(Voicy 2021年6月4日)。広瀬香美さんご自身は歓迎の立場ですし、それは香美さんの憶測ですが。なお、対照的にクラシックの世界では楽譜至上主義的立場の人が少なくないように聞きます。しかし、クラシックの場合は原曲著作権は消滅しているので、経済的動機は関係なくて思想的なものですね。誰かがもしアレンジしたければどうアレンジしても他人は(自分は気に入らないという感情の吐露は別にして)文句は言えません。

また、別の経済的視点もあり得ます。特に楽譜出版の時、作曲者本人が必ず監修者として入る(ことを要求する)ことで、著作権料だけでなく印税の一部を確保また独占できる、という利点はあることになります。もし誰かが単著で編曲の楽譜を出版したら、作曲者には、著作権料は入るものの印税は入りませんからね(注: 著作権料は作曲者、作詞者、編曲者に入り、印税は本の(解説文などを著す)著者に入る)。要するに、作曲者の関与しないアレンジを排することで、作曲者は楽譜出版を独占して相対的に儲かる可能性はあります。もちろん、よくよく考えれば、前述の議論のように、編曲したバージョン(演奏や楽譜)が売れることで全体の利益、つまり作曲者の全収入、があがることもあるから、そううまくいくとは限らない話ではありますが……。皮肉に言えば、アレンジ禁止を主張する人に、そこまでちゃんと考察できるほどビジネスセンスがあるかどうかは別問題にせよ。

3.3 著作権の文化的本質と著作者人格権

3点目として、著作権のそもそもの本質も考慮に値します。

世の中の文化振興のためには、理想的には、著作権は(そして特許も)そもそも無い方が良い、とも言えます。その方が、世界中の人々が、富者も貧者も、広くアートを含めた著作物を享受でき、文化振興されるからです。クラシック音楽が良い例です。作者が何世紀も前に死んだクラシック音楽には著作権がないから、誰でもいつでも自由に演奏できて、音楽振興に役立つ。しかし一方で、もし仮にすべての著作物に著作権が無くなれば、創作してすぐに無料複製が世にあふれるようになって著作者は儲からないために、ほとんど誰も著作しなくなることでしょう——少なくとも、大金がかかるような創作は経済的に不可能になります(たとえば映画制作)。それは、文化振興の対極です。だから、著作物については著作者の一定の権利を認め、著作者に相応の利益分配することでバランスを取って、クリエイティブな著作者には動機づけし、社会としては一定の費用を支払うことで文化を享受するのが最も良い、ということになります。それが著作権の意義です。究極的には、人類文化の振興に役立つから著作権がある、とも解釈できます。もちろん、著作者の承認欲求を満たす、という側面もあるにせよ、です。

著作者人格権は、その著作権の一つです。したがって、著者にどこまで権利を認めるべきかの議論は、人類文化の振興にどれほど役立つか、という視点でも考察すべきかも知れません。著作者人格権は原則として著作者の死亡とともに消滅するとされている日本の現行の著作権法は、そういった著作権の存在意義の原則に叶っていると私は思います。

関連する例として、著作権に似た特許の分野を考えます。特許の世界で一つ問題になり得ることに、敵対的特許取得があると理解しています。あることを実現する方法がAとBとの2つあった時に、一社がAとB両方の特許を取得して、自社では方法Aしか使わず、方法Bは眠らせて誰にもライセンス供与しないことで、ライバル社が方法Bで同様のことを実現するのを妨げる戦略です。これは、特許(などの知的財産の)本来の精神には反します。特許が存在するのは、開発者に一定の保護を与えることでイノベーションを奨励してそれを世界全体で享受することにあるのに、意図的にライセンス供与を断れば、その精神に反するからです。

音楽でも、同じことが言える可能性はありましょうか。著作者人格権、なかでも同一性保持権をあまりに絶対視すると、人類文化における創作などに制限が与えられて、創作活動が萎縮する可能性もありましょう。 たとえばある曲を(許可をちゃんと得て)演奏した時に、その場の高揚で少しアレンジ入れてしまったばかりに、後に著作者人格権(同一性保持権)侵害で訴えられることを恐れねばならない世界は、ディストピア的だと感じます。

現実に、前述の大地讃頌事件の後に、音楽業界に影響がありました。大地讃頌事件の場合、訴えられたレコード会社は当初は(法廷で)争う姿勢を見せていたところ、ミュージシャンの方の意向によって、出版取りやめにすることで落ち着いたそうです(Wikipedia)。法廷で裁判官によって決着がついたわけではないによせ、レコード会社やミュージシャンとしては、一旦出版したものを取りやめるという損害を被るのを甘受したわけです。その事件の後、レコード会社から(著作者人格権侵害を代理で管理することが通例である)音楽出版社への問い合わせが激増して負担になっている事実もあるということです(出典: よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編 6th Edition, 安藤和宏, 2021年)。一旦出版したものについて取りやめせざるを得ない可能性があるならば、レコード会社にとっては大いなるリスクだから、それは当然の対策ですね。そしてそれは音楽文化振興にとって好ましくない副作用だったと言って間違いないでしょう。出版コストがあがります(問い合わせもコスト)。著作権者や音楽出版社にとっては儲けは変わらないのに手間だけ増大します。そしてなにより、常識的な線を超えて「ビクビク」しないといけないことは、文化を萎縮させることに繋がりましょう。

私自身は、クリエイターの端くれであることもあり、著作権についてはかなりシビアに考えている方だと自負しています。たとえば、Twitterに借り物画像を投稿するならば、画像の著作権を確認した上で、ALTなどで出典を書き込むように気をつけるくらいのことはしています(C0を除くCreative Commonsライセンスなどであればそれが陽に要求されますし)。著作者の権利はできるだけ守っていきたいものです。

とは言え、それもバランスであり、過剰な保護は人類文化にとって損失であるともよく理解しています。結局、音楽も含めて著作物は人類文化への貢献である、という視点を忘れずに考えたいものです。


Masa Sakano

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