スコットランド独立問題に関係して、スコットランドが世界中で話題になっています。 そこで、背景となるスコットランドの歴史をまとめてみました。
ローマ時代からノルマン征服まで
ブリテン島が歴史の表舞台に登場するのは、 紀元一世紀(43年)にローマ人が侵略開始して統治してからです。 それ以前はケルト人の土地でした。ちなみに、有名な世界遺産 ストーンヘンジは、欧州本土からケルト人がやってくる以前、 先住民によって建設されたもの、というのが定説のようです。
当時、ローマ人がバース(Bath)村に建設した温泉が、現在の英語の bath (風呂)の語源です。あるいは、英国の地名で、"c(h)ester"が 語尾につくもの、たとえば、マンチェスター(Manchester)、 ウスター(Worcester)、レスター(Leicester)は、当時由来です。
ローマ人は、現代のイングランドに相当する部分のほとんどを
征服しました。しかし、山がちのウェールズとブリテン島北部の
スコットランドには手を焼いたようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_conquest_of_Britain (地図を参考に)
当時、"北方蛮族"の侵入に悩んだローマ帝国皇帝ハドリアヌスが 築いたのが現代も世界遺産として(一部が)残るハドリアヌスの長城 (Hadrian's Wall)です。スコットランドとイングランドとの国境に 沿ってブリテン島を横断して 118km に渡る城壁です。 言うまでもなく、「北方蛮族」とはスコットランド地元民ケルト人の ことですから、地元民から見れば、侵略占領する異邦人に対して 攻勢をかけていた、ということになります。
ローマ帝国は、本国の凋落に伴い、五世紀 409年に英国から撤退します。 その後数百年は、暗黒時代と呼ばれて、英国の歴史の理解は限られています。 文字による記録がごく限られるようなので。 ただ、デンマーク方面からゲルマン人(アングロ・サクソン人)が 英国に渡ってきて、支配、分割統治していたのは確実です(いわゆる七王国)。
結果、イングランドからはケルト人は駆逐あるいは同化され、また 言語的にも、それが現代の英語の基礎を築いています。
11世紀に、(フランス北部を拠点にする)ノルマンディー公ギヨーム2世により、 イングランドが征服、統一されました(ノルマン征服)。
なお、ノルマン人はゲルマン系なので、そういう意味で、当時の イングランド人(サクソン人などのゲルマン系)とは似ていたようです。
余談ながら、ノルマンディー公国の、特に貴族の言語は、フランス化 していたもので、それが英語に大きな影響を与えました。現代、 英単語の相当数がフランス語起源なのはその影響が大きいようです。 面白いのは、英語で動物を示す単語とその肉を示す単語が異なることが 多いのは、この時代に由来するそうです。つまり、イングランドの 被支配層(ゲルマン系言語)が育てた動物(例えば、牛=cow, ox)の肉を、 ノルマンディーからの支配層(フランス語系)が食用とした(牛肉=beef; (現代)フランス語の「牛」は boeuf)ために、二重構造の言葉となったの だとか。
スコットランド
一方、スコットランドでは、9世紀半ばに一定の統一が行われました
(スコットランド王国)。英語の "Scotland"はこの時代に使われ、
以来、定着したようです。
ノルマン征服の時も、征服されたのはイングランドであり、
スコットランド王国は独立を保っていました(国境の変遷はあったにせよ)。
その後のイングランドとスコットランドとの歴史は……、 大変、めまぐるしいものです。内紛にも事欠かず、また 欧州でよくあるように、王族が別の国の王族と婚姻をしばしば 繰り返すこともあり、ある時は傀儡になった(された?)り。 そんな中、イングランドの影響を排除しようと、スコットランドの 「独立戦争」も起きました。その際、スコットランドはフランスと 手を結んだものでした。
この傾向は今でも微妙に見られるようで、どちらかと言えば、 イングランドとフランスとはライバル意識が強いのに対し、 スコットランド人はフランスを好意的に見ている傾向があるのを感じます。
関連する余談を二つ。
この第二次独立戦争の末期、当時のスコットランド国王デイヴィッド2世が、 イングランドの捕虜となりました。以来、(ロンドン塔、ウィンザー城、 次いでオーディハム城で)11年の捕囚生活を過ごすことになりましたが、 デイヴィッド2世はイングランド王家と縁戚関係にあり、妻はイングランド 国王の妹ということで、それなりに快適だったとか。その間、 スコットランドは王の代理人が統治せざるを得ませんでした。 最終的に、フランスとの百年戦争との最中だったイングランドは お金(身代金)で解決することにし、デイヴィッド2世は スコットランドに(ローン付きで)帰還して、これにて独立戦争は 正式に終了しました。めでたしめでたし!?
スコットランド王家には、別名「運命の石(Stone of Destiny)」とも 呼ばれるスクーンの石(Stone of Scone)という伝説の石がありました。 代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式を挙げたとか。 イングランドのエドワード1世が 1296年にスコットランドに侵攻した時、 この石(152kg!)を戦利品として持ち帰り、その後、この石は、ロンドンの ウェストミンスター寺院の木製の椅子の下に置かれることになりました。 この椅子はイングランド王の戴冠式に用いられるようになった、つまり、 代々の王は、この石を尻に敷いて即位することになったものです。 現在のエリザベス女王も然り! 1996年、丁度700年後にスクーンの石はスコットランドに返還され、 今はエディンバラ城に保管されています。
この石、1950年には、4人のスコットランドの学生により ウェストミンスター寺院から盗み出される事件がありました。その際、 石は二つに割れてしまいました。ちなみに、その盗難の協力者の 一人は、エドワード1世の21代目の子孫にあたる人だったとか。 歴史の重みがある話ですね。
ジェームズ6世/1世の同君連合
さて、本筋に戻ります。
一番有名な歴史上のスコットランド人は、16世紀のメアリー女王でしょう。
イングランド女王のエリザベス一世と同時期の人物で、数々の恋愛や
謀殺で彩られ、女王の座を奪われてイングランドに亡命した後、
最終的には謀反の疑いでエリザベス一世に処刑されました。
しかし、メアリー女王の一人息子のジェームズは、メアリーの廃位直後、 御歳1歳でスコットランド王位に就きました(ジェームズ6世)。 四人の摂政が次々に殺害されたり処刑されたりの後、親政を 敷きました。王権神授説を唱えたことでも有名です(フランスの ルイ14世よりもずっと早い)。
その後、ジェームズは、イングランド女王エリザベス一世の死去後、 (血縁関係から)イングランド王に指名され、ジェームズ1世として即位しました (ステュアート朝の幕開け; Union of the Crowns)。ジェームズは、 スコットランド王の地位は保ったままでした。つまり、イングランドと スコットランドとの両方の王になったわけです。ジェームズ1世/6世以降、 この同君連合体制が 100年続くことになります。 ジェームズはイングランドの宮廷に住み、以降、スコットランドに 帰ることはほとんど無かったそうです。 ちなみに、イングランドによるアイルランド支配を確立させたのも ジェームズの時代です。
このジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を希い、 現在のイギリス国旗のユニオンジャックも制定しました。
ユニオンジャックは、イングランドとスコットランドとの 両国の国旗を足して二で割ったようなデザインです。 W杯などでは、両国それぞれの国旗がテレビでも見られるでしょう。 英国の街では、ユニオンジャックを見ることよりも、土地に応じた それぞれの国旗を見かけることの方が多いです。特にスコットランドで ユニオンジャックを見かけることは稀です。
しかし、両政府の強硬な反対により、統一が実現することは ありませんでした(統一実現は百年後の 1707年)。
革命の時代のイングランドとスコットランド
ジェームズ1世/6世以降は、同君連合が形成されたとは言え、 そこから 100年後の統一までの道のりは平坦には程遠いものでありました。 王族とスコットランド、イングランド両国の議会および軍事勢力から オランダ、フランス、ドイツなどの外国王家も巻込み、宗教や利権や 愛憎(?)まで複雑に絡み合って英国の歴史が激動していた時代です。
なかでも清教徒革命(the Puritan Revolution)の最中には、時の王 チャールズ1世は処刑され、(息子の)チャールズ2世が 30年後に王として 即位するまでの間、革命の指導者クロムウェルおよびその息子が護国卿 としてイングランド、スコットランド(およびアイルランド)の両方で 実権を握っています。
ちなみに、清教徒革命は英語で三王国戦争(The Wars of the Three Kingdoms)とも呼ばれます。三王国とは、イングランド、スコットランド、 アイルランドを指します。その方が名を体を指しているかも知れません。 この時、スコットランドとしては、歴史上初めて、生粋のイングランド人 (クロムウェル)に直接統治されることになりました。
1688年に起こった名誉革命(Glorious Revolution)は、無血として 知られているのが一般的でしょう。実際、イングランドではほぼ無血で 王位が(ジェームズ1世/6世の息子の)ジェームズ2世/7世から (娘の)メアリー2世とその夫でオランダ総督のウィリアム3世との 共同統治へと譲位されました。 しかし、スコットランドとアイルランドとでは(フランスの ルイ14世の支援も受けて)ジェームズ2世/7世を担いで反乱が起き、 鎮圧される(つまりはイングランドに破れる)まで多くの血が流れました。
イングランドとスコットランドの統一の後
1707年にイングランドとスコットランドとの両議会で統一が決定された後も、 スコットランドでは武力反乱が起きては鎮圧されることが続きました。 抵抗勢力は基本的にジェームズ2世/7世の直系男子(ステュアート家)を 正当の王家として担いでいて、ジャコバイト(Jacobite)と呼ばれます。
その最後の大規模武力反乱は 1745年に起きたものです("the Forty-Five")。 ローマに亡命していたチャールズ・エドワード・ステュアート若僭王 (The Young Pretender)がフランス国王ルイ15世の助力を得て、 ハイランドの氏族をバックに内戦を起こしました。
若僭王側(ジャコバイト側)は、翌年、カロデンの戦い(Battle of Culloden)で大敗北を喫して勝敗が決し、これにて実質的に ジャコバイト側の息の根が止められました。
この"the Forty-Five"は、今でも、特にスコットランド人には 歴史上の大事件としてよく知られているようです。 これに絡んで余談を三つ挙げます。
天下を分けたカロデンの戦いでは、英国側指揮官カンバーランド公 ウィリアム・オーガスタスが、(戦の大勢が決した後に)負傷者や残党に 加えて非戦闘員まで大虐殺したとされ、 「カンバーランドの屠殺屋」(Butcher Cumberland) の異名を得たことで有名です。今でもその悪名は知られています。
この戦の後、英国(グレートブリテン王国)政府はスコットランドで ハイランド民族衣装のキルトやタータン模様の着用と武器の所持とを法律で 禁じ(Dress Act 1746 と Disarming Act)、伝統の氏族制度を解体しました。 スコットランド人にとっては、これはさぞ屈辱であったことでしょう。
キルト着用禁止法は 36年後に廃止されました。その後、それ以前は ハイランドの山々の部族の貧乏くさい服だったキルトが、スコットランド 全体の民族衣装として格上げされて認知されるようになったそうです。
そして、1822年にジョージ4世が英国国王として 171年ぶりに スコットランドを訪問して以来、タータンは英国全土で人気を博す ことになり、今ではたとえばバーバリーの「チェック」模様として 英国の代名詞的模様になっています。
また、敗走したチャールズ若僭王のハイランド各地(から最終的に フランスまでへ)の逃避行を歌った "The Skye boat song" は、 有名なスコットランド民謡となっています。他にも、これら ジャコバイトの"活躍"や歴史が、劇や小説や音楽の題材によく使われます。
以上が、スコットランドに関係する英国の歴史でした。 以下、ウェールズとアイルランドとについても少し触れておきます。
ウェールズ
ウェールズは、ケルト系の小国家群が続いていた後、 13世紀にフレウェリンが統一を試みました。しかし、結局、イングランド王 エドワード1世に攻込まれ、敗れ、以降、ウェールズはイングランドの 支配下に入りました。エドワード1世は、ウェールズ人の恨みを なだめるため、身重の王妃をウェールズの(現世界遺産)カナーヴォン城に 連れて行き、そこで出産された王子を「Prince of Wales」と呼びました。
伝説によれば、「ウェールズで生まれたこの王子はウェールズ語を 喋り英語を喋ることは無いだろう」と述べられたとか (伝承であって証拠はない、つまり後世の作り話かも、という話ですが)。
それが今でも、英国の第一王位継承者に与えられる公式の称号になっています。 現在ならば、(故ダイアナ妃の夫の)チャールズの称号です。
アイルランド
一方、スコットランドとイングランドが統一してグレートブリテン王国と
なった英国は、約100年後の 1801年にアイルランドを併合し、
「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」
を形成しました。
1922年に南部アイルランドが独立し(←現在のアイルランド共和国)、現在の
「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」
になっています。
北アイルランドでは、1960年代以降、宗教上政治上の対立が深まり、 数々の血腥いテロ行為がアイルランドおよびブリテン島で 実行されました。その状況は、1998年の歴史的なベルファスト合意により 一気に落ち着くまで続きました。
現在、北アイルランド人は、英国およびアイルランド共和国双方の 市民権を持っています。つまり、両方の国のパスポートを持てます。 現実には、北アイルランドは、今も英国の領土です。つまり、税金や 法体制はすべて英国に則っていますし、英国議会に(人口に比例した)議席も 持っています。独自の北アイルランド議会を持ち、つまり立法権もあるん ですが……、議会はあまり機能していないようです。ベルファスト合意 の後に設立された北アイルランド政府も同様の様子です。



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